教育、学び、そして学校


現状分析(1) 〜 急増する不登校生徒

公開: 2024年3月23日

更新: 2024年7月31日

あらまし

文部科学省の報告によれば、2022年における小・中学校における不登校児童・生徒の総数は、約29万1千人です。この数は、これまでで最大です。その数の変化をみると、2019年頃から、急激に増加しています。ところで、「不登校」とは、どのような意味でしょうか。文部科学省は、小・中学校の生徒で、年間20日以上、学校に登校しない人々の状態を言います。特にその中で、自分や家族の病気、または家庭の経済的な事情で通学困難になっている人々を除いた人たちが問題になります。従来、そのような人々の数は、10万人以下でした。それが、5年ほど前から、急に増えているのです。文部科学省の調べでは、その原因は、生徒自身が「学校へ行くことがいやになった」り、「学校へ行こうとすると体調が悪くなったりする」ことが理由だそうです。

「文部科学省の調査における不登校」では、小中学校へ登校していても、教室で授業を受けていない生徒たちは、不登校にはなりません>。学校へ来ていても、授業を受けていないだけなのです。ここに数字の「からくり」が潜(ひそ)んでいます。登校しても授業を受けていない生徒たちが漏(も)れているからです。登校して、保健室に行っている生徒や、図書室に行っている生徒は、同じ学級の「他の生徒と一緒に学んでいない」と言う意味では、不登校の生徒と同じです。それでも、文部科学省の調査では、不登校とされないのです。つまり、同じ学級の、他の生徒と一緒に学んでいない生徒の数は、文部科学省のデータよりも多くなります。約30万人の生徒は、1学級当たりにすると、1名から2名になりますが、教室で一緒に学んでいない生徒の数は、もう少し多くなるでしょう。つまり、しっかりと学べていない生徒の数は、1学級に2人から4人程度になると言えます。

2016年、文部科学省は、小中学生が学ぶ場所を、学校の教室に限定しないことを決めました。つまり、小中学生は、家で学ぶことも、学習塾のような特別な施設で学ぶことも、さらに、今までと同じように、他の生徒たちと同じ学校の教室で、同じ一人の先生から学ぶことも許されるようになりました。その意味では、以前のように、不登校は問題ではなくなりました。最近の不登校児童・生徒の急激な増加は、このような文部科学省の方針転換が影響しています。生徒が学ぶべき知識だけを言えば、学校へ登校するかどうかは、大きな問題ではありません。しかし、特に小学生の場合、将来、社会人として仕事をするときに必要となる、社会性を身につけるためには、学校で、他の生徒と一緒に学び、お互いに刺激しあうことは、人間形成の面で、小中学校の教育に重要な教育のテーマの一つなのです。

不登校の問題は、戦後教育の問題と言われていますが、戦前からあったようです。戦前の不登校の原因は、主として教員にあったとされているようです。戦後の不登校問題は、1950年代末から、生徒が学校へ行っていないことを問題視する傾向が社会に出てきたため、社会問題化されました。そして、臨床心理学や精神医学の専門家によって、治療法の研究が行われました。研究者たちは、最初、不登校の原因を家庭の問題」であると言う説を唱えていました。文部科学省もその説を採用としていました。それは、当時の日本社会では、学校制度が絶対的規範であると考えられていたからのようです。最近では、そのような1950年代の考え方を採る研究者は少なくなりました。

現状分析(1) 〜 急増する不登校生徒

文部科学省の報告によれば、2022年における小・中学校における不登校児童・生徒の総数は、約29万1千人だそうです。もちろん、これは、これまでで最高の数です。さらにこの数の変化をみると、2019年頃から、急激に増加しています。ところで、不登校とは、どのような意味でしょうか。文部科学省は、小・中学校の生徒で、年間20日以上、学校に登校しない人々の中で、自分や家族の病気、または家庭の経済的な事情で通学困難になった人々を除いた人たちが、学校へ来ていないことを言います。従来は、そのような人々の数は、10万人以下でした。それが、5年ほど前から、急に増えているのです。文部科学省の調べでは、その原因の主なものは、生徒自身が学校へ行くことがいやになったり、行こうとすると体調が悪くなったりすることが理由だそうです。

上に述べた「文部科学省の不登校」には、小中学校へ登校していても、教室で授業を受けていない生徒たちは、不登校には含まれません。授業を受けていないだけです。ここに数字の「からくり」が潜(ひそ)んでいます。登校しても授業を受けていない生徒たちが、記録されている数字から漏(も)れているのです。登校して、保健室に行っている生徒や、図書室に行っている生徒は、同じ学級の「他の生徒と一緒に学んではいない」と言う意味では、不登校の生徒と同じです。それでも、文部科学省の調査では、不登校とされていないのです。つまり、同じ学級の、他の生徒と一緒に学んでいない生徒の数は、文部科学省のデータよりも多くなります。約30万人の生徒は、1学級当たりにすると、1名から2名になりますが、教室で一緒に学んでいない生徒の数は、もう少し多くなるでしょう。つまり、しっかりと学べていない生徒の数は、1学級に2人から4人程度になると言えます。

2016年から文部科学省は、小中学生が学ぶ場所を、学校の教室に限定しないことを決めました。つまり、小中学生は、家で学ぶことも、特別な塾のような施設で学ぶことも、今までと同じように、他の生徒たちと同じ学校の教室で、同じ一人の先生から学ぶことも、「学んでいる」と認めるようになりました。その意味では、以前のように、「不登校であること」、つまり、「学校へ登校していない」こと自体は、問題ではなくなりました。最近の不登校児童・生徒の急激な増加は、この文部科学省の方針転換で、不登校自体では問題にならなくなったことで、各学校からの事例の報告がし易くなったことが、影響しているとも考えられます。生徒が学ぶべき知識だけを言えば、学校へ登校するかどうかは、大きな問題ではありません。しかし、特に小学生の場合、将来、社会人として仕事をするときに必要となる、「社会性を身につける」ためには、学校で、他の生徒と一緒に学び、お互いに刺激しあうことは、長期的な人間形成の面で、小中学校の教育での大切な教育テーマの一つなのです。

特殊教育学研究第35巻1号に掲載された、不登校の研究動向」と題した報告で、小野昌彦氏は、米国では1940年代から、不登校の研究が行われていて、「学校恐怖症」という言葉が作られていました。実際に学校恐怖症が原因で、不登校になった生徒は多くなかったので、心理学者たちは改めて、「不登校の研究」を始めたそうです。1970年代になると、イギリスの研究者らによって、「登校拒否症」と言う用語が提案され、日本でも使われるようになったそうです。日本の研究者は、1980年代になって、以下のような状態にある生徒を、「不登校」の状態にあると、判定するべきであると、提案しました。

  • 登校拒否の症状が中心的な問題であること
  • 登校拒否の現象を引き起こす理由に、身体的、または知的な問題がないこと
  • 生徒自身に、精神分裂病、うつ病、「てんかん」などの神経症がないこと
  • 学校教育について、親の関心や理解に問題がなく、経済的にも困っていてないこと
  • 学校側に登校をしにくくする、特別な理由や事情がないこと
  • 生徒自身の学び方や進路について、学校で学ぶことを拒否する理由がないこと
これが、現在、日本社会で言う「不登校」を説明するための、「不登校状態」の定義と言えます。

不登校の問題は、戦後教育の問題と言われていますが、戦前からあったようです。戦前の不登校の原因は、主として教員にあったとされているようです。戦後の不登校問題は、1950年代末から、生徒が学校へ行っていない状態にあることを、社会的な問題と考える傾向が社会全体に出てきたため、社会問題化されました。そして、臨床心理学や精神医学の専門家によって治療法の研究が行われました。研究者たちは、最初、不登校の原因が、「家庭の問題」にあると言う説を唱えていました。旧文部省もその説を採用していました。それは、当時の日本社会では、学校制度が絶対的規範であると考えられていたからのようです。最近では、そのような1950年代の考え方を採る人々は少なくなりました。

2016年にそのような日本社会の変化を反映して、「義務教育の段階における普通教育の機会の確保に関する法律」が制定され、学校以外の場所における教育の必要性が認められ、学校への登校を長期にわたって休むことの自由も認められるようになりました。この法律によって、教員の不登校児童・生徒に対する指導も変化し始め、「不登校を容認する」ようになりました。日本社会における不登校児童・生徒数の最近の増加は、この社会における変化を反映した結果であるとも言えるでしょう。少なくとも教員の目から見れば、不登校と言う現象は、すでに日本社会では、学習者個人の教育上の問題ではなくなっているのです。

しかし、日本社会を長期的な視野で考えると、不登校問題は、少子化問題と同じように、日本社会においては、20年後の将来に、重大な影響を与える、問題の一つです。それは、不登校現象は、しばしば、その人々の将来における「引きこもり」の原因となる可能性があるからです。それは、不登校は、義務教育を受ける児童生徒が直面している個人の問題ですが、その結果、その人々が近い将来、社会に出て、自分の能力を発揮して働くために必要不可欠な知識技能を得ていない人々を作り出す、社会的問題でもあるからです。それは、人口減少が問題になる、21世紀後半の日本社会では、生産的な社会活動に参画できない全人口の4パーセント前後の人々を生み出します。現在の日本社会の雇用制度では、高等教育を受けずに、社会で経済活動に参加し、能力を発揮することは、ほとんど不可能だからです。

例外はありますが、中学校の生徒で、不登校を経験した生徒は、普通高校に進学することは容易ではありません。中学校で不登校だった生徒が進学できる高校は存在しますが、それらの高校から大学へ進学できる人々の数は、かなり少なくなります。そして、大学を卒業していなければ、人手不足が著しい、現在の日本社会でも、正規の新入社員として企業に採用されることは、ほとんどありません。つまり、不登校現象は、その人の将来の社会活動への参画の道を閉ざす障壁になる可能性が高いと言えます。2050年頃の日本社会で、若い人々の5パーセント程度が、そのような義務教育時の不登校が原因で、生産活動への参加ができなくなると、日本社会全体の生産力が落ち、日本の経済力が低下します。つまり、新しい法律で、不登校が、教育行政上の問題ではなくなっても、将来の日本社会にとっては、不登校の問題が、解決したわけではないのです。

不登校の問題をどう解決したら良いのかについての解答は、まだ見つかっていません。イギリスをはじめとしたヨーロッパの国々では、社会階層間の問題として捉えられることが多いようです。米国では、主として、経済格差の問題として捉えられているでしょう。では、日本社会では、何が主たる原因であり、何が解決されるべき問題だとされているのでしょう。文部科学省の調査によると、不登校の主たる原因は、生徒・児童の「無気力と不安」だとされています。これは、小中学生が「学校で学ぶことに意欲が出ない」ことや「学校で他の生徒たちと一緒に学ぶことに、漠然とした不安を感じている」ことの現れであると考えられています。また、同じ調査で、児童・生徒の回答に、「親の、不登校に対する関わり方に問題がある」とするものも、割合は少ないのですが、約1割あったそうです。

この児童・生徒の「学ぶことに対する無気力」の原因は、日本社会の義務教育の実施法における問題が隠れていると思われます。それは、明治以来のやり方である、一人の教員が、多数の生徒に対して、同じ内容のことを、同じ時に説明すると言う、一斉教授法を採用していることです。その前提には、教室内の学習者の事前知識の内容が、ほぼ同じ水準にあることです。つまり、1つの教室が、学習者の学習進度に従って構成されている前提があります。しかし、日本社会の場合、学校の教室は、教室内の児童生徒たちの年齢に従って構成されており、一人一人の学習進度には関係なく構成されています。このため、教室の中には、教員の説明を理解できない学習者も、教員の説明内容を既に知っている学習者も混在しています。教員は、そのような教室の中の、一部の学習者に焦点を合わせて、学習内容を説明することになります。結果として、他の学習者たちは、対象になっていないのです。

今の日本社会で、学習塾が必要不可欠になる理由がここにあります。教室の中で、教員の説明を理解できない学習者たちは、その内容を理解するために、より理解しやすい(より分かり易い)説明を塾の講師から聞かなければ、学習内容について行けません。逆に、既に教員の説明を理解している学習者にとっては、その知識に関係した、より高度な知識が要求される問題に対応するための知識を、塾の講師から学ぶ必要があるからです。これを公的な義務教育の現場で行うことは、現在の日本社会のやり方では、不可能です。特に、教員の説明を理解できない学習者の場合、教室での学習を「あきらめる」生徒が出現します。これは、もともと理解度や知識の水準が異なる学習者に対して、「学習者は、すべて同程度の理解度と事前知識を持っている」とした前提で、授業を計画し、実施していることに原因があります。その場合の解決策は、一つでしょう。授業実施のための教室を、学習進度別に再構成することです。

ヨーロッパ諸国や米国・カナダなどでは、教室は学習進度別に構成されます。高い進度の学習者を想定した教室で授業を受け、所定の成績に達しなかった学習者には、より低い学習進度を想定した教室への移動を要求します。このことによって、授業を担当する教員の負荷を平準化します。また、学ぶ学習者に対する負荷も軽減されます。唯一の問題は、一般的に、必要になる教員の数が増えることです。つまり、学校教育に必要となる予算が増加することです。日本社会の場合、国家として義務教育に投入している予算額は、ヨーロッパ諸国に比較するとかなり少ないのが現状です。米国社会との比較は、学区によってまちまちなので簡単ではありません。平均値を採った場合、日本社会と米国社会では、ほぼ同等だと言えます。しかし、親が高学歴の人々が多い学区の場合、米国社会の方が、日本社会よりもずっと多い予算額になります。日本社会の場合、特に都市部以外の地域における、予算額の配分が問題になります。明治以来、義務教育に十分な国家予算を投入してこなかった、日本社会の歴史的な背景が、足かせになっています。

(つづく)