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近代日本社会の教育制度(3) 〜 終戦から平成まで

公開: 2024年2月27日

更新: 2024年7月24日

あらまし

1945年8月15日、日本政府は、連合国に対してポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを宣言しました。これは、これ以上の犠牲を国民に背負わせることはできないとする、昭和天皇のご意向を尊重した決定でした。軍首脳の何人かは、責任を取る形で自決しました。鈴木貫太郎首相は、戦後処理のため、首相に留まりました。また、近衛文麿元首相や東条英機元首相らは、連合軍総司令部が日本に進出し、占領軍司令部を開設するのを待ちました。1945年9月11日、占領軍司令部が立ち上がり、戦争犯罪人としての逮捕が迫っていることを認識した東条元首相は拳銃で心臓を撃ち、自殺を図りました。しかし、米軍の憲兵による救命措置によって、一命を取りとめました。近衛文麿は、1945年12月6日に、連合軍総司令部が日本政府に対して近衛を戦争犯罪人として逮捕することを命じ、出頭を命じられることが避けられないことを知り、12月16日、青酸カリを飲み自殺しました。

1945年9月、日本政府の代表は、連合軍との間で無条件降伏文書に調印し、正式に敗戦を受け入れました。占領軍の総司令部は、民主主義化した日本社会の再建に着手するため、新しい憲法の制定作業を開始しました。当初は、近衛文麿元首相の提案なども検討されましたが、旧憲法(大日本帝国憲法)との違いが明確でなかったため、占領軍の中核を形成していた米国軍の顧問団が草案を書いた、いわゆる平和憲法の原案に基づき、国民の主権を表明した日本国憲法が、米国顧問団と、日本政府の首脳らの間で合意されました。新憲法では、天皇の存在は認めましたが、「天皇を国民統合の象徴」と位置づけました。また、国民の基本的人権を基本として、「戦争の放棄」を宣言する内容になりました。これは、旧日本軍首脳や旧日本政府の首脳が、無条件降伏の受け入れ条件として最後まで拘っていた「国体(こくたい)の維持」が、無視されたことを意味していました。令和の時代になっても、日本の保守的な政治家や政治学者が、「新憲法は米国が作った憲法であり、自前の憲法ではない。」と主張する根拠になっています。

1947年3月、日本政府は、学校教育法教育基本法を公布しました。学校教育法は、明治の学制令に似た役割を持った法律で、米国社会の学校教育制度に似せ、6・3・3・4制の導入を決定したものです。戦前の学校教育制度では、義務教育であった8年間の初等教育後の中等から大学までの制度が、中学・高校・大学のモデルを基本としながらも、専門学校などの導入で、多岐に分かれていて、複雑に絡み合っていた問題を整理し、小中学校の9年間を義務教育とし、高校の3年間と、大学の4年間、または短期大学の2年間を高等教育に位置づけました。しかし、敗戦直後の1945年から1955年頃までの10年間を見ると、この教育基本法で述べられていた日本社会の教育は、日本社会全体が貧しかったこともあり、満足できる水準に達していたわけではありませんでした。

日本社会は、憲法との大きな矛盾を出さずに、敗戦からの復興を目指して進みました。1955年頃から、日本社会は急激な経済成長期を迎えました。1950年代の前半に、戦後ベビーブーム世代が小学校へ入学した頃、小学校では、教員不足問題から、教育の質の低下に社会の注目が集まり始めていました。この教育の質の低下問題を解消するために生まれたのが、学習塾私立中学校でした。これは、子供たちの親が、自分たちの収入から、子供たちの学費を捻出し、子供たちに「より良い教育」を受けさせられるようにするための仕組みでした。それは、子供たちの「より高い学力」が、「より良い高校」「より良い大学」への入学を可能にし、そのことが、「より良い企業」への就職を可能にすると考えられていたからです。当時、それこそが、「より良い人生」を生きるための、必須の条件だと考えられていたからです。

近代日本社会の教育制度(3) 〜 敗戦から令和まで

1945年8月15日、大日本帝国政府は、連合国に対してポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを宣言しました。旧日本軍の中には、最後まで徹底抗戦を続けるべきだと主張する人々もいましたが、首脳たちは、昭和天皇のご意向を尊重し、これ以上の犠牲を国民に背負わせることはできないと考え、何人かは、責任を取る形で自決しました。鈴木貫太郎首相は、戦後処理のため、首相に留まりました。また、近衛文麿元首相や東条英機元首相らは、連合軍総司令部が日本に進出し、占領軍総司令部(GHQ)を開設するのを待ちました。1945年9月11日、占領軍総司令部が立ち上がり、東条元首相の戦争犯罪人としての逮捕が迫っていることを認識した東条は、拳銃で自分の心臓を撃ち、自殺を図りましたが、米軍の憲兵による懸命の救命措置によって、一命を取りとめました。近衛文麿は、1945年12月6日に、連合軍最高司令官総司令部が日本政府に対して近衛を戦争犯罪人として逮捕することを命じ、出頭を命じられることが避けられないことを知り、12月16日、所持していた青酸カリを飲み自殺しました。

1945年9月、日本政府の代表は、連合軍との間で無条件降伏文書に調印し、正式に敗戦を受け入れました。占領軍の総司令部は、民主主義化した日本再建に着手するため、新しい憲法の制定作業を開始しました。当初は、近衛文麿元首相の提案なども検討されましたが、旧憲法(大日本帝国憲法)との違いが明確でなかったため、占領軍の中核を形成していた米国軍の顧問団が草案を書いた、いわゆる平和憲法の原案に基づき、国民の主権を表明した日本国憲法が、米国顧問団と日本政府の首脳らとの間で、合意されました。新憲法では、天皇の存在は認めましたが、「天皇を国民統合の象徴」と位置づけました。また、国民の基本的人権を基本として、「戦争の放棄」を宣言する内容になりました。これは、旧日本軍首脳や旧日本政府の首脳が、無条件降伏の受け入れ条件として最後まで拘っていた「国体(こくたい)の維持」が、無視されたことを意味していました。2020年代、令和の時代になっても、日本の保守的な政治家や政治学者が、「新憲法は米国が作った憲法であり、日本国民の意志が反映された憲法ではない。」と主張する根拠になっています。

1946年11月、民主主義を基本とした日本国憲法が公布されると、日本政府は、全ての国内法を、新憲法に適合させるための法律改正作業にとりかかりました。六法全書の全てを読み直し、新憲法との矛盾がないように、内容を修正する作業です。その過程で、教育行政に関する法律は、明治の教育勅語に基づいていた、それまでの教育関係の法律を大きく修正する必要性に迫られていました。

1947年3月、日本政府は、学校教育法教育基本法を公布しました。学校教育法は、明治の学制令に似た役割を持った法律で、米国社会の学校教育制度に似せ、6・3・3・4制の導入を決定したものです。戦前の学校教育制度では、義務教育であった8年間の初等教育後の中等から大学までの制度が、中学・高校・大学のモデルを基本としながらも、専門学校などの導入で、多岐に分かれていて、複雑に絡み合っていた問題を整理し、小中学校の9年間を義務教育とし、高校の3年間と、大学の4年間、または短期大学の2年間を高等教育に位置づけました。

教育基本法は、明治の教育勅語とそれに関連する法律に似た役割を担った法律です。教育基本法では、日本社会における教育の目的を、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(第一条)としています。これは、教育勅語でも、「人格の形成」に重点を置いていたのと共通する面があります。しかし、教育勅語では、国家に対する「忠」の精神の修得と、親や家に対する「孝」の実践など、修身的思想を重視していました。しかし、新しい教育基本法では、平和で民主的な国家および社会の建設に役立つ人材の育成と言う倫理的思想が重視されています。また、正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んじ、公共の精神に基づいて、主体的に社会の形成に参画する態度を養成することも、強調されています。

さらに、教育基本法では、すべての国民に、人々の能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、「人種、信条、性別、社会的身分、家庭の経済的状況などによって、教育上の格差がうまれてはならない。」と、しています。このため、国や地方公共団体は、身体的に「障害を持つ人々などに対しては、十分な教育機会が与えられるよう、支援策を講じなければならないこと、また、経済的に困窮している人々に対しては、適切な財政的支援策を講じなければならない。」としています。このことによって、全ての日本国民が、一定水準以上の教育を受けられるような教育基盤を準備するようになっています。

敗戦直後の1945年から1955年頃までの10年間を見ると、この教育基本法で述べられていた日本社会の教育は、日本社会全体が貧しかったこともあり、満足できる水準に達していたわけではありませんでした。しかし、日本社会は、憲法との大きな矛盾を出さずに、敗戦からの復興を目指して進みました。1955年頃から、日本社会は急激な経済成長期を迎えました。それは、戦時中は海外の戦場に出て、戦っていた若い男性が一気に帰国し、労働力として生産に従事するようになり、日本社会の経済構造も、農業中心の経済から、工業中心の社会へと転換し始めていたからです。そのため、戦前の社会と比較すれば、はるかに高度な知識を身に着けた若い労働力を、日本社会が必要とし始めていました。

1940年代後半頃から、戦場から帰還した若い男性が結婚適齢期となり、日本社会には結婚・出産ブームが始まりました。このことは、米国社会でも起きていました。日本政府は、その新生児のために、急遽、小学校を建設する必要性に迫られました。特に、工業化社会の到来で、人口が集中し始めていた関東、関西、中部、北九州などの都市部では、小学校の数も、教員の数も不足していました。地方公共団体では、教員人材の不足を解消するための様々な政策が実施されました。1950年代の前半に、その戦後ベビーブーム世代が小学校へ入学したとき、日本中が、この子供たちが必要としていたモノや新サービスの供給に追われ始めました。小学校では、教員不足問題から、教育の質の低下に社会の注目が集まり始めていました。

この教育の質の低下問題を解消するために生まれたのが、学習塾私立中学校でした。これは、子供たちの親が、自分たちの収入から、子供たちの学費を捻出し、子供たちに「より良い教育」を受けさせられるようにするための仕組みでした。それは、子供たちの「より高い学力」が、「より良い高校」「より良い大学」への入学を可能にし、そのことが、「より良い企業」への就職を可能にすると考えられていたからです。当時、それこそが、「より良い人生」を歩むための必須の条件だったからです。しかし、このことは、親への経済負担が重くなることを意味していました。つまり、親の「経済的豊かさ」が、子供の「より良い人生」を歩みだすための条件になることを意味していたのです。

この親の「経済的豊かさ」と、子供の「学力」や「学歴」との直接的な関係は、1960年代頃から、学校における一部生徒の「落ちこぼれ」問題を生み出し始めました。教室の中で、授業についてゆけない生徒たちが、学ぶことをあきらめ、徒党(ととう)を組んで暴れまわったり、悪さをしたりするようになりました。この問題に対処するため、教員は、学校内での問題だけでなく、生徒の生活指導などにも時間を割かなければならず、ますます、教室での教育の質は低下し始めました。さらに、この問題は、学校内における「いじめ」問題をも生み出しました。1990年代に入ると、一部の生徒による特定の生徒に対する「いじめ」が激しくなり、生徒の自殺や、一部の生徒の不登校が問題になるようになりました。この段階に至ると、問題解決は、個別の教員の手には負えなくなりました。

教育基本法の枠組みは、変わっていませんが、1947年の日本社会と、2020年の日本社会は、質的に全く異なる社会になりました。経済構造の変化によって、日本社会は、国民の間での経済格差が著しくなり、その格差が、教育格差に直接つながるようになりました。そして、教育格差は、経済格差を増幅させるため、次の世代の人々になると、より大きな教育格差、経済格差を生み出します。とくに、経済が発展した社会では、労働の成果である仕事の価値を生み出す源が、知識に偏るため、知識を得なければ、富を生み出すことができなくなります。さらに、より高い知識を得るためには、その基礎として、一定水準以上の基礎知識が必要とされるようになっています。教育は、人の一生を左右する、重要な要素になっているのです。

このような問題を生み出している原因の一つに、日本社会に根付いている偏差値に基づく進学指導があります。さらに、企業における雇用制度と採用試験制度も原因の原因と言えるでしょう。企業の雇用制度が変わらなければ、大学の入学選抜も変わりません。大学の入学選抜が変わらなければ、高校の入学試験や中学の入学試験も変わらないでしょう。これらは、全て、個別の問題ではなく、互いに深く結びつき、絡み合っている根深い問題なのです。ですから、個別の問題を解決するだけでは、問題を解決したことにはなりません。抜本的な対応が必要です。

(つづく)