教育、学び、そして学校


近代日本社会の教育制度(2) 〜 教育勅語から終戦まで

公開: 2024年2月17日

更新: 2024年7月23日

あらまし

19世紀末の1890年、明治政府は大日本帝国憲法の発布を目前にしていました。いわゆる明治憲法の制定です。これは、日本が天皇制を基礎として、欧米先進諸国に匹敵する軍事力を持ち、資本主義経済を社会の基盤として発展する、西欧の先進国と似た国家制度の中心として、天皇に主権を置き、全ての国民が「神である天皇」への忠誠を誓うことを表明する、国家神道を標榜することとしました。このことを全ての日本国民に徹底するため、明治政府は、憲法とは別に、「天皇から国民への言葉」としての「教育勅語」(きょういくちょくご)を定め、1890年に発表しました。

明治憲法は、国家の統治制度を定めた法律の基本を示したものです。それに対して、教育勅語は、日本国民が共有し、実践しなければならない価値観についての指針を、当時の日本国民に馴染みのあった中国の儒教思想に基づいて示したものです。その基本にあったものが、天皇への忠誠と、親への孝行でした。特に天皇に対する忠誠心は、重要とされました。教育勅語の発表に伴って、初等教育においては、それを教える「修身」(しゅうしん)の科目が導入され、広く教えられるようになりました。つまり、その後の日本社会の初等教育では、読み、書き、計算、書道と、修身が、身に着けるべき知識・しつけとして、最も重要視されるようになりました。

さらに、第1次世界大戦後、1930以降の時代になると、軍国主義的な色彩が強くなった日本社会では、国民の間に「不敗神話」や「神風神話」などを根付かせるための、国粋主義的思想教育に重点が置かれるようになり、第2次世界大戦中の、日本軍における特攻隊の自爆攻撃や、玉砕戦法の導入に拍車をかけました。これは、日本軍には勝つ見込みがない戦いであっても、「あえて、死を覚悟して攻め、全滅する」と言う戦い方を、天皇への忠誠を示す戦い方として、称賛する国民の間の空気を作り出しました。これは、明治維新の学制などで、初等教育導入の当初の目的にあったものではなかったのですが、明治中期以降の時代の流れの中で、日本の初等教育制度に組み込まれ、少しずつ国粋主義的に変化していったものでした。

明治中期以降、日本社会における初等教育での男子の就学率は、50パーセントを上回るようになり、日本社会の工業化を推進する原動力にまで育ちました。それだけでなく、日本軍の戦力増強においても、それを底辺で支える力に成長しました。しかし、それから20年程度の時間が過ぎたころから、日本軍の中では、理性に基づいた思考の精神が薄れ、精神論が重視されるようになりました。「気力が不足しているから戦いに負ける」や「弱気だから戦いに負ける」と言うような、合理性を無視した議論が中心になりました。

1941年12月、日本政府の首脳も、日本軍の首脳も、日米の国力の大きな差を認識しながら、第2次世界大戦への参戦を決意しました。1941年の段階で、対中国との戦闘で獲得していた日本の権益維持に固執せず、米国との戦争を回避する方針を採用していれば、その後の戦いで日本が失ったものは、それほど多大ではなかったはずです。日本政府の首脳や、日本軍の首脳が、どのような条件での停戦を考えていたのかは、分かりません。しかし、その段階であれば、開戦を踏みとどまる決定は、難しくなかったはずです。それを難しくしていたのは、明治後期からの教育制度で育てられた日本国民全体の認識の甘さと、教育勅語の教えによって冷静な判断ができなくなっていた世論を、政府が抑えられなくなっていたからです。

近代日本社会の教育制度(2) 〜 教育勅語から終戦まで

明治維新から10年ほどの期間が過ぎ、西郷らによる九州での西南戦争を政府軍が収拾すると、日本社会における旧士族層の支配力は急速に弱まり、旧農民や旧商人階級の人々の社会への台頭が進みました。これは、日本社会の経済が、封建時代の経済から、近代資本主義社会の貨幣経済へと、移行したことの現れでした。この社会の変化は、日本社会全体の流れを、それまでの文明開化・自由民権の流れから、復古調の流れへと、緩やかに変化させ始めました。人々は、急激に進み始めていた西洋化の流れよりも、古い封建的な流れへの懐古を懐かしむ傾向を持ち始めていたのでしょう。学制の発表で、急速に西洋化しようとした日本社会の初等教育制度も、日本社会の実情に合わせて、見直され、現実的な制度に変更されました。

1880年頃までは、米国式の初等教育制度を模倣し、小学校で教えるべき知識に重点をおいていました、特に小学校の下等教育は、読み書き計算を中心とした現実的なものとなり、さらに漢学者たちの進言を受け入れて、「徳育」にも力を入れるようにもなりました。その背景には、急進的な自由民権運動に対する、日本社会の指導層による警戒感の影響を受け、江戸時代からの「日本的な精神」を重視した教育への回帰を要請する空気もあったようです。

19世紀末の1890年、明治政府は大日本帝国憲法の発布を目前にしていました。いわゆる明治憲法の制定です。これは、日本を天皇制を中心として、高い軍事力を持ち、資本主義経済を社会の基盤として発展する、西欧諸国と同じような近代国家を築こうとすることを、内外に宣言するものでした。特に、国家の制度の中心として、天皇に主権を置き、全ての国民が「神である天皇」への忠誠を誓うことを表明する、国家神道を標榜していました。このことを全ての国民に徹底するため、明治政府は、憲法とは別に、「天皇から国民への言葉」としての「教育勅語」(きょういくちょくご)を定め、1890年に発表しました。

明治憲法は、国家の統治制度を定めた法律の基本を示したものです。それに対して、教育勅語は、日本国民が共有し、実践しなければならない価値観についての指針を、当時の日本国民に馴染みのあった中国の儒教思想に基づいて示したものです。その基本にあったものが、天皇への忠誠と、親への孝行でした。特に天皇に対する忠誠心は、重要とされました。教育勅語の発表に従って、初等教育においては、それを教える「修身」の科目が導入され、広く教えられるようになりました。つまり、その後の日本社会の初等教育では、読み、書き、計算、書道と、修身が、身に着けるべき知識・しつけとして、最も重要視されるようになりました。特に、日露戦争以降、修身教育は、強い日本軍の兵士を作るため、軍において重視されるようになりました。

さらに、第1次世界大戦後、1930以降の時代になると、軍国主義的な色彩が強くなった日本社会では、国民の間に「不敗神話」や「神風神話」などを根付かせるための思想教育に重点が置かれるようになり、第2次世界大戦中の、日本軍における特攻隊の自爆攻撃や、玉砕戦法の導入に拍車をかけました。これは、日本軍には勝つ見込みがない戦いであるとしても、「あえて、死を覚悟して攻め、全滅する」と言う戦い方を、天皇への忠誠を示す戦い方として、称賛する国民の間の空気を作り出しました。これは、明治維新の学制などで、初等教育導入当初からの目的にあったものではありませんが、明治中期以降の時代の流れの中で、日本の初等教育制度に組み込まれ、少しずつ国粋主義的に変化していったものでした。

明治中期以降、日本社会における初等教育での就学率は、男子の場合、50パーセントを上回るようになり、日本社会の工業化を推進する原動力に育ちました。それだけでなく、日本軍の戦力増強においても、それを底辺で支える力に成長しました。しかし、それから20年程度の時間が過ぎたころから、日本軍の中では、合理性の精神が薄れ始め、精神論が重視されるようになり、「気力が不足しているから戦いに負ける」や「弱気だから戦いに負ける」と言うような合理性を無視した議論が主力になりました。

1930年代初めの、中国大陸での小規模な戦闘では、問題が明確にはなりませんでしたが、1939年のソ連軍と日本軍の衝突は、完全な近代戦であり、圧倒的な兵力差、武器の差で、勝敗が決定づけられる状況でありながらも、作戦の失敗を、「戦場の兵士や指揮官の士気の低さ」の問題にすり替えるなど、日本陸軍での戦略上の問題を隠す対応がみられました。これは、明治中期以来の「教育勅語」戦略の失敗だったと言えるでしょう。それでも、日本軍も日本政府も、その後の対応を修正できずに、無意味な戦争に突入してゆきました。

1941年12月、日本政府の首脳も、日本軍の首脳も、日米の国力の大きな差を認識しながら、第2次世界大戦への参戦を決意しました。1941年の段階で、対中国との戦闘で獲得していた日本の権益維持に固執せず、米国との戦争を回避する方針を採用すれば、その後の日本が失ったものは、それほど多大ではなかったはずです。日本政府の首脳や、日本軍の首脳が、どのような条件での停戦を考えていたのかは、分かりませんが、その段階であれば、開戦を踏みとどまる決定は、難しくなかったはずです。それを難しくしていたのは、明治後期からの教育制度で育てられた日本国民全体の認識の甘さと、教育勅語の教えによって冷静な判断ができなくなっていた日本人の世論を、政府が抑えられなくなっていたからです。

さらに、1944年の夏ごろから、日本陸軍も日本海軍も、南太平洋での、米国軍を主体とした連合軍の攻撃にさらされており、本格的な反撃ができずにいました。その段階で、いたずらに戦力を消耗せずに、停戦を受け入れる道は残されていたはずです。それをせずに、戦力を消耗し、「特攻」による一時的反撃だけに頼っていた日本軍を支えていたのは、「教育勅語」で育てられた、日本人の若者たちの士気の高さと自己犠牲の精神だけでした。敵軍に、一時的な打撃を与えることはできても、戦略的な効果はありませんでした。むしろ、戦後復興への人材として、彼らを温存し、敗戦を受け入れるべきだったと言えます。それを不可能にしていたのは、決断できない日本軍首脳達の前例踏襲の精神と、優柔不断でした。

1945年に入ると、戦況はさらに悪化しました。米国における原子爆弾開発も最終段階に入り、投下目標地点の絞り込みも始まりました。沖縄での防衛線が終わっても、日本政府では、終戦への道筋を描くことができていませんでした。天皇の命で、ソ連を仲介者として停戦の道を探る方針が決まったのは、7月でした。その頃、ソ連のスターリンは、対日戦争の着手に入っていました。日本政府による具体的な手段は、なくなっていたのです。8月に入って、2発の原子爆弾が日本に投下され、ソ連軍が中国大陸北部での日本軍への攻撃を開始しても、政府は、ポツダム宣言の受け入れを決断できずにいました。最後は、天皇の裁可によって、終戦が決められました。

1925年から1945年までの20年間、日本政府の意思決定をその底辺で支えていたのは、政府の高官や軍の首脳たちの思想や信念ではなく、実は、「教育勅語」の思想で育てられた日本の国民が信じていた空気であったと言えます。日米戦争の開戦を決定した東条英機元首相も、本人の意思や信念に基づいて、それを選択し、決定したのではなく、国民世論に押されて、決定を下しただけであったと言えるでしょう。近代国家における初等教育は、その国の100年後の将来を決定づけるほど、重大な影響を与えるほどの国家の大事業です。明治中期の「教育勅語」によって、国民を誤った方向に導いてしまった、教育行政の失敗は、当時の世論に導かれた結果だったとはいえ、当時の日本政府首脳の政治的選択の誤りも、重大な原因の一つでした。

(つづく)