公開: 2024年6月6日
更新: 2024年8月28日
日本社会は、近代以降の150年間で初めて、社会構造改革の必要性に迫られています。現代日本の公立小中学校の教育現場で、個々の教員が直面している問題の根源の一つは、明治維新に導入された、一斉授業方式、年齢別の学年制度や基本的に全員が同時に進級する制度で、児童や生徒が学ばなければならない知識が増大した今の日本社会では、機能不全を起こしているのです。
その結果が、「不登校問題」や「いじめ問題」となって、表面化しています。これらの問題の解決を、現場の教員たちの個人的な努力に頼っている、現在の教育政策を維持している限り、「不登校」や「いじめ」は、増え続けます。さらに、「不登校」は、「引きこもり」の若者を作り出し、それが、数十年後には、ニートで貧困に悩む中高年の貧困問題に変わってゆきます。現在の日本の雇用制度を変えなければ、高等教育の卒業時(大学卒業時)に「正社員」に採用されなかった人材は、ほとんどの場合、一生、「非正規社員」の身分に留まり、「正規社員」の身分を得ることができません。
その意味で、現代の日本社会において、教育制度改革は、重要な課題です。それは、教育問題は、対策に着手してから、効果を現実のものにするために、20年以上の時間を必要とするからです。民主主義は、国民の知的水準が一定以上でなければ、単なる衆愚政治になります。かつて、中国大陸での日中戦争から、米国との太平洋での戦争に着手したころの日本社会は、そのような「衆愚政治」が社会を支配した時代であったと言えるでしょう。私たちは、二度と、同じ誤りを繰り返してはならないのです。
明治維新から現在までの日本社会の教育は、可能な限り早い時期に、可能な限り高度な知識を学ばせることで、「年齢が若い時に、高度な専門知識を利用できるようになった人材こそが、日本社会に有用な人材になる」と言う仮説が正しいとして、それを実践するための教育に専念してきました。その仮説は、正しい仮説だったのでしょうか。実は、「高度な知識を学んだ人は、人間性も高くなる」と言う保証はないのです。あたかも、そのような証明があるかのように考えること自体が、間違いなのです。昭和の前半まで、日本社会では、その誤っている仮説が、「あたかも証明されている真実であると」と信じてきました。
現在、日本社会で義務教育を学んでいる児童・生徒の中には、うすうすそのような現実を直感的に感じ取り、現在の日本社会の教育に疑問を持ち、消極的な反対の意志を表明しようとする気持ちを持っている人がいるのではないでしょうか。彼ら、彼女らは、学校の教育で、教員が行う説明を完全に理解できなくても、自分たちが生きてゆくうえで、そのことが大きな障害になるとは限らないことを、肌で感じているのではないでしょうか。だからこそ、「不登校」になったり、その場しのぎの「いじめ」に参画するのではないでしょうか。しかし、そのいじめは、時として被害者の自殺にまで発展する危険性があるのです。
これからの日本社会は、単に知識の量を追いかける初等教育ではなく、これからの次代を担う人々に、本当に必要な知識をしっかりと教える初等教育を実施し、一部の高度な知識を必要とする児童生徒に、その要請に応える高度な知識を教えられる新しい初等教育制度を準備しなければなりません。
日本社会は、明治維新以来初めて、本格的な社会構造改革の必要性に迫られています。現代日本の公立の、小学校や中学校の教育現場で、一人一人の教員が直面している問題の根源も、明治維新の時に導入された、一斉授業方式で、年齢別の学年制度や基本的に全員が同時に進級する制度は、児童や生徒が学ばなければならない知識が増大した日本社会では、機能不全を起こしているのです。その問題が、「不登校問題」や「いじめ問題」となって、表面化しているのです。これらの問題の解決を、現場の教員たちの個人的な努力に頼る、現在の教育行政を維持している限り、「不登校」や「いじめ」は、増え続けます。
さらに、「不登校」は、「引きこもり」の若者を作り出し、それが、数十年後には、ニートで貧困に悩む中高年に変わってゆきます。現在の日本の雇用制度を変えなければ、高等教育の卒業時(大学卒業時)に「正社員」に採用されなかった人材は、ほとんどの場合、一生、「非正規社員」の身分に留まり、「正規社員」の身分を得ることができません。それは、現在の厚生年金制度の枠組みから外れるため、その人たちの老後に、十分な額の公的年金を受け取ることができないことを意味します。そして、多数の生活保護を受ける高齢者を生み出します。そのことは、結果として、日本国民全体の税負担を重くし、生活水準を低下させることになります。つまり、できるだけ早く、社会制度の改革に着手しなければ、将来の日本は「貧しい国」になってしまいます。、
そのような「最悪のシナリオ」が現実にならないようにするための対策として、最初に教育制度改革は、重要な課題になります。それは、教育問題は、対策に着手してから、効果を現実のものにするために、20年以上の時間を必要とするからです。日本の全ての国民が、この「問題を放置すれば、将来、日本社会はどのような社会になってゆくのか」を自らの力で考えられるようになるための準備には、長い時間が必要なのです。この条件が成立して、始めて日本社会は、民主主義の原理に従って、国家の正しい選択ができるようになるのです。民主主義は、国民の知的水準が一定以上でなければ、単なる衆愚政治に陥ります。かつて、中国大陸での日中戦争から、米国との太平洋での戦争に着手したころの日本社会は、そのような「衆愚政治」が社会を支配した時代であったと言えるでしょう。私たちは、二度と、同じ誤りを繰り返してはならないのです。
日本社会全体の知的水準を、そのような水準に引き上げるために、小学校の児童たちに、高度な数学的な知識を理解させ、初歩的なコンピュータ・プログラミングの知識を学ばせ、簡単な英語の会話能力を育てることは、本当に重要な問題でしょうか。確かに、一部の日本人にとっては、そのような知識は、将来の仕事にとって、大切なことかもしれません。その知識によって、より高い収入を得ることができるでょう。しかし、そのような教育によって、学校での学びについて行けず、不登校の児童生徒を作り出してしまう可能性もあります。むしろ、人間として「どう生きるか」や、「何が良いことで、何が悪いことなのか」などを判断できる力を養い、友達と一緒に「学び」「遊ぶ」ことを学ぶことの方が重要ではないでしょうか。これらは、古代ギリシャのソクラテスの時代から、「人間として生きる」ために、重要な能力とされてきた問題でした。そのような土台の上に、高度な知識を身につけなければ、身に着けた実践的な知識を、社会のために「正しく」活かす人材を育てることはできないでしょう。
明治維新から現在までの日本社会の教育は、可能な限り早い時期に、可能な限り高度な知識を学ばせることで、「年齢が若い時に、高度な専門知識を知っている人材こそが、日本社会に有用な人材になる」と言う仮説が正しいとして、それを実践するための教育に専念してきました。その仮説は、正しい仮説だったのでしょうか。実は、「高度な知識を学んだ人が、人間性も高くなる」と言う保証はないのです。あたかも、そのような証明があるかのように考えること自体が、間違いなのです。
明治時代の末から、昭和の前半まで、日本社会では、その誤っている仮説が、「あたかも証明されている真実である」と信じられ、その仮説に従って、国家のリーダーを選出してきました。その結果、日本社会と米国社会の経済格差の実態を理解していなかった日本の大衆は、「日本は神の国」であると言う、根拠のない、当時の小学校で学んだ思想が正しいと信じて、「米国との戦争」に踏み込む政策を、熱狂的に支持しました。これは、「集団ヒステリー」と呼ばれる現象です。当時の日本人が、もし、今の日本人と同じような「知性」を得ていたとすれば、当時の日本国民の多数が、「対米戦争開戦」を指示することはなかったでしょう。それほど、客観的に見れば、当時の日本人は「無知」だったのです。
ここで言う「無知」とは、「日本語の読み書きができない」とか、「簡単な足し算や引き算ができない」、「地図にある国の名前を知らない」など、知識の水準が低い、つまり「知っていなければならないこと」を知らないことを意味するものではありません。分かっている知識を基に、正しく、論理的な思考を展開し、客観的に合理的な結論を得ることができないことを意味しています。その意味では、今の日本人は、「もの知り」ですが、その知性の水準は、昭和初期の日本人と大差がないかも知れません。そうだとすれば、これまでの戦後の日本の教育が、戦前までの教育と大きな違いがなく、適正ではなかった結果だと言わざるをえません。
現在、日本社会で義務教育を学んでいる児童・生徒の中には、うすうすそのような現実を直感的に感じ取り、現在の日本社会の教育に疑問を持ち、消極的な反対の意志を表明しようとする気持ちを持っている人がいるのではないでしょうか。彼ら、彼女らは、学校の教育で、教員が行う説明を完全に理解できなくても、自分たちが生きてゆくうえで、そのことが大きな障害にはならないことを、肌で感じているのではないでしょうか。だからこそ、「不登校」になったり、その場しのぎの「いじめ」に参画するのではないでしょうか。しかし、そのいじめは、時として被害者の自殺にまで発展する危険性があるのです。
これは、知識を得る以前に、つまり、「言葉の意味を憶えたり」、「文字の読み方を憶えたり」、「数を数えたりすることを憶えたりする」前に、人間として「してはならないこと」、「しなければならないこと」をしっかりと学んでいないからでしょう。特に、「嘘をついてはならない」ことを身に着けさせる社会的な訓練が、不十分だと、「罪の意識なく、嘘をつく人間」になります。これは、人間の社会を不安定なものにします。とくに、「言葉上の表現」と「社会の実態」とがかけ離れると、人間社会における秩序の維持は困難になります。そのため、「嘘を言うことは、罪である」とする教えが、人間社会では、重視されてきたのです。
しかし、言葉だけを学び、「嘘の言明が罪である」ことを学ばなかった人は、嘘を言っても、「罪の意識」を伴いません。話していることの前後だけの、「限定された範囲だけ」での論理や「つじつま」の関係だけに焦点が集まり、その場の話に矛盾が見つからなければ、平気で嘘をつくことができます。これは、典型的な「詐欺師(さぎし)」のやり方です。これでは、「信用」で成り立っている人間社会は、嘘のために信用が成り立たなくなり、自然と崩壊します。その良い例が、「戦争」です。敵国の社会や政府が悪いとする宣伝、プロパガンダによって、ほとんどの国民が騙(だま)され、為政者の嘘を信じて、戦争を支持するのです。2022年のロシアで起こったことは、その良い例でしょう。そのような嘘が「まかり通る」ことがないようにするため、人々の知性を高めなければならないのです。義務教育は、そのためにも重要です。