教育、学び、そして学校


おわりに: 明日の世界を開く人々を育てよう

公開: 2024年6月12日

更新: 2024年8月28日

あらまし

学校教育の現場における{不登校」や「いじめ」の問題は、先進諸国のどの国でも、程度の差こそあれ、発生しています。しかし、だからと言って、全ての国における問題が、全て同じだとは言えません。特に、少子化が極端に進行している東アジアの国々においては、他の国々の状況よりも、かなり深刻な状況です。それは、東アジアの国々では、集団で一斉授業を学び、その学びの成果を、単純な問題に対する正解率だけで評価する傾向が強いからだと思われます。

この問題を解決するためには、社会全体の知的水準を向上させ、「人材の評価とはどのようなことなのか」を、しっかりと考え直すことが必要になります。与えられた問題に対する解答の正答率で、人を評価することはではないのです。このことを日本社会全体が、明確に理解することが重要です。「その人が知識を知っていること」と「その人が有能であること」は、本質的に異なる問題なのです。明治維新からの150年間、日本社会は、「知っていること」が「有能であること」を示していると、考え続けてきました。

これまで、日本社会では、教育は義務的な教育を含めて、そのかなりの部分の経済的な負担を、児童・生徒の保護者である、主として両親に負わせる制度を踏襲(とうしゅう)してきました。義務教育である初等教育の段階から、保護者に対してその経済的負担を要求する政府は、世界的に見れば、特に先進諸国においては、一般的とは言えない制度です。米国を除いた多くの国々では、教育に必要な経費については、かなりの割合を国家が負担するやり方を採用しています。これによって、社会階層間での進学率の格差は、著しく開くことはありませんでした。

社会階層の固定化は、日本社会が封建制度の時代に戻ることを意味します。この問題を未然に防ぎ、社会のタイナミズムを維持するためにも、教育の経済負担を軽減する制度の導入が必要です。授業料の負担だけでなく、給食費の負担や、修学旅行への参加費費などの負担なども含めて、家計負担を軽減することが重要です。さらには、高等教育の授業料などの負担も軽減するべきでしょう。日本社会で少子化が進む原因の一つに、子どもたちの教育に必要となる教育費の負担があると指摘されています。

これからの10年間で、日本社会を変えることができなければ、日本社会は、衰退します。

おわりに: 明日の世界を開く人々を育てよう

ある社会において、特定の制度を変えると、短期的な視野で見た場合、必ず、その変化によって利益を得る人々と、損をする人々の両方が出ます。特に、損失を被(こうむ)る人々は、それまでの制度では優遇される立場にあり、多くの場合、その社会の中では、力を持っていた人々であることが、少なくありません。当然のことですが、そのような人々は、その自分たちが受けるであろう損失を理由にして、制度の変更に反対します。力のある人々の反対に直面するため、政府は、そのような制度改革の必要性を認識していても、制度改革の実施を先送りする傾向があります。

一般的に、民主主義の進んだ社会で、制度改革が遅れる理由の一つに、このような民主主義社会の特性があります。特に、制度改革前の社会で、既得権益を享受してきた、保守的な社会階層に属する人々が、制度改革を唱える革新的な政策を支持する、新しく台頭してきた社会階層の人々と対立するのは、このためだと考えられています。これまで述べてきた、日本社会における教育制度などの改革も、まさにこの特性を持っています。特に、日本社会の富裕階層の人々にとっては、現在の教育制度は、自分たちと、自分たちの子供の社会的身分を維持することが容易で、自分たちに都合の良い制度だと考えています。

しかし、そのような制度は、社会的に不平等な制度であり、長期的な視野で考えれば、その社会の血のめぐりを悪くし、その社会の衰退を早めます。ただ、その衰退は、その社会の現世代や、その子供たちの次世代に起こる問題ではなく、ゆっくりとした変化によって、数世代後の、100年後の時代に顕著に起こる変化で、現世代の人々には明白な問題を感じさせません。つまり、改革によって直接的に生じる問題に注目するか、多重な連鎖の結果、数十年後に降りかかる問題に注目するかで、国家の対応は変わるのです。ただ、対応が遅くなればなるほど、問題は大きくなり、制度改革は難しくなります。

このような性質から、制度改革をどのように実施するかは、その社会の政治的な課題となります。日本社会の場合、既得権を守ろうとする傾向が強いため、西洋の国々と比較すると、改革への着手は、一般的に遅れる例が多いようです。教育制度の改革について言えば、今の日本社会における政府による改革への着手は、明らかに遅れています。日本の教育問題は、既に、解決への糸口が見出せないくらいに、複雑になっていて、複数の問題に対して、問題を一度に解決するような改革に取り組まなければならない状況に陥っています。これを、このまま放置しておくことは、日本社会の将来にとって、とても危険なことでしょう。、

学校教育の現場における{不登校」や「いじめ」の問題は、先進諸国のどの国でも、程度の差こそあれ、発生しています。しかし、だからと言って、全ての国における問題が、全て同じだとは言えません。特に、少子化が極端に進行している東アジアの国々においては、他の国々の状況よりも、かなり深刻な状況です。それは、東アジアの国々では、集団で一斉授業を学び、その学びの成果を、単純な問題に対する正解率だけで評価する傾向が強いからだと思われます。それは、古い中国の「科挙」の制度の歴史が影響しているのかも知れません。そのような単一的な味方の評価方法に、疑問を持つ人が少ないからでしょう。

この問題を解決するためには、社会全体の知的水準を向上させ、「人材の評価とはどのようなことなのか」を、しっかりと考え直すことが必要になります。問題に対する解答の正答率で、人を評価することはではないのです。このことを日本社会全体が、明確に理解することが重要です。「その人が知識を知っていること」と「その人が有能であること」は、本質的に異なる問題なのです。明治維新からの150年間、日本社会は、「知っていること」が「有能であること」を示していると、誤解し続けてきました。この誤った認識を、修正する必要があるのです。

これまで、日本社会では、教育は義務的な教育を含めて、そのかなりの部分の経済的な負担を、明治以来、児童・生徒の保護者である、主として両親に負わせる制度を踏襲(とうしゅう)してきました。義務教育である初等教育の段階から、保護者に対してその経済的負担を要求する政府は、世界的に見れば、特に先進諸国においては、一般的とは言えない制度です。米国を除いた多くの国々では、教育に必要な経費については、かなりの割合を国家が負担するやり方を採用しています。これによって、社会階層間での進学率の格差は、著しく開くことはありませんでした。日本では、家族全体の収入と、子供たちの最終学歴との間に、かなり直接的な関係が見られます。これは、社会階層の固定化を生み出します。

社会階層の固定化は、日本社会が封建制度の時代の状態に戻ることを意味します。この問題を未然に防ぎ、社会のタイナミズムを維持するためにも、教育の経済負担を軽減する制度の導入が必要です。授業料の負担だけでなく、給食費の負担や、修学旅行への参加費費などの負担なども含めて、家計負担を軽減することが重要です。さらには、高等教育の授業料などの負担も軽減するべきでしょう。日本社会で少子化が進む原因の一つに、子どもたちの教育に必要となる教育費の負担があると指摘されています。国家の水準で考えると、そのような教育のための家計負担を軽減する政策も、教育制度を改革するきっかけになるはずです。

政治家も、官僚も、教員も、経営者も、社会人も、これらのことを理解しなければ、日本社会は変わりません。これからの10年間で、日本社会を変えることができなければ、日本社会は、衰退します。

(おわり)