公開: 2024年5月26日
更新: 2024年9月8日
先生から教えられたことを、正しく理解して、先生が示した問いに対して、先生が模範として示した答えを間違えず答えられることではありません。これまでの日本社会の学校教育では、そのことは、とても大切だとされてきました。しかし、これからの時代には、日本社会の人々を正しい方向に導き、人々を幸せにするためには、先生が「正しいと言われている答え」を教えなくても、周囲の人々を導いて、「正しそうな答え」を見つけ出し、その「正しそうな答え」に従って人々を導き、社会を「正しそうな方向へ向かって導けそうな」力を備えた人を育てられるかどうかが、問題です。それは、明治以来のこれまでの日本社会の教育では、あまり重要視されてこなかった問題です。
チベットの社会で、高僧のダライラマは、チベットの民を正しい方向へ導き、多くの国民が平和に生きられるような社会を建設できるように教えを述べなければなりません。数多くのチベットの子供たちの中から、「次のダライラマ候補」の育成を担う人は、「将来、ダライラマ候補になれそうな素質のある子供」を見出し、寝食を共にしながら、一緒に学び、活動します。ある時は、苦行を共にし、ある時は、進んで悩んでいる人々を救済します。また、先人たちの教えを一緒に学ぶこともあります。その間、「次のダライラマ候補を育成する人」は、自分が選んだ候補者が生きるための、食べ物や着る物を確保するための、日々の仕事にも従事します。このようにして育成されてきた「候補者」たちが、青年になると、全国から一か所に集められ、共同生活をしながら、彼らに与えられる様々な課題に対応してゆきます。
彼ら、「ダライラマ候補者達」の行動は、ダライラマを選ぶ高僧らによって常に監視され、調べられます。高僧たちは、個々の候補者が、ダライラマとして生きる資格を満たしているかどうかを、四六時中監視し続け、何年もかけて候補者たちの素質を見極めます。その途中で、多くの候補者が、「次のダライラマ候補」の座から脱落してゆきます。ダライラマ候補者を見出し、育成してきた人々は、そのような厳しい候補者争いに、自分が育ててきた候補者が生き残れるように、できる限りの「教え」を尽くしてきたはずですが、その「教え」を守れなかった青年は、「ダライラマ候補」には、残れません。ですから、候補者を見出し、育てる人々も、全身全霊を懸けて、一生懸命に育てるのです。
このような人材育成の方法は、人類が数千年に渡って実施してきた方法です。しかし、人類の文明が進歩するに従って、リーダーが知っておくべき事柄の利用が増加すると、そのような知識を身に着けることに中位が集中し、リーダーが本来身に着けるべき人間性や、徳の教育がおろそかになり、また、その評価が難しいこともあって、次第に社会の焦点は、対象になっている人物の知識に移ってゆきます。これが、長期的には、社会の発展の方向を誤らせる原因になります。つまり、短期間で成果を出せる人が、本当に、社会のためになる人かどうかは、分からないのです。やはり、リーダーには、知識よりも徳が求められるのです。
ここで問題にしている「良い学び」とは、どのようなことを意味するのでしょう。それは、先生から教えられたことを、正しく理解して、先生が示した問いに対して、先生が模範として示した答えを間違えずに答えられることではありません。これまでの日本社会の学校教育では、そのことは、とても大切だとされてきました。しかし、これからの時代には、日本社会の人々を正しい方向に導き、人々を幸せにするためには、先生が「正しいと言われている答え」を教えられなくても、周囲の人々を導いて、「正しそうな答え」を見つけ出し、その「正しそうな答え」に従って人々を導き、社会を「正しそうな方向へ向かって導けそうな」力を備えた人を育てられるかどうかが、問題です。
これは、チベット社会で、次の「ダライラマ候補者」を育てる問題に似ています。ダライラマは、チベットの民を正しい方向へ導き、多くの国民が平和に生きられるような社会を建設しなければなりません。数多くの子供たちの中から、「次のダライラマ候補」の育成を担う人は、「ダライラマ候補になりえる人」を見出し、寝食を共にして、一緒に学び、活動します。ある時は、苦行を共にし、ある時は、進んで悩んでいる人々を救済します。また、先人たちの教えを一緒に学ぶこともあります。その間、「次のダライラマ候補を育成する人」は、自分が選んだ候補者が生きるための、食べ物や着る物を確保するための仕事にも従事します。このようにして育成されてきた「候補者」たちが、全国から1箇所に集められ、共同生活をしながら、彼らに与えられる様々な課題に対応してゆきます。
十数年に及ぶ、次期ダライラマ選考過程を通して、脱落しなかった一握りの候補者の中から、最終的に次期ダライラマ候補者が決まります。この次期ダライラマ選考過程の途中で、ほとんどの候補者は、脱落してゆくのです。次期ダライラマ候補に残れなくても、それまでの選考過程に残ってきた実績があるため、それぞれの修行者には、人々に正しい道を説く力が備わっています。その意味で、立派な僧として、「人に教えを説く」能力は育っており、僧として生き続けることはできます。その僧を育てた人々は、その僧の弟子として、その後も、その人に仕(つか)え続けることもできます。
「質の良い学び」は、次期ダライラマ育成過程で、ダライラマ候補者の育成者が行う、次期ダライラマ候補者を見出し、その候補者と生活を共にして、人としての生き方を、育成者自身が身をもって実践します。それが、全ての、高度な「人材育成」に共通する、全人的な実践教育です。そのような教育は、一人の教員が、多数の児童・生徒を対象にして、一斉に説明するような集合教育で行うには無理があります。どうしても一人の教員が、少数の児童・生徒を対象にして実施する、「個人教育」にならざるをえません。それは、教育費用の増大をもたらします。
ダライラマ後継者育成のための教育制度と、その実践は、チベット民族が600年以上に渡って行ってきた、古典的な教育の実践であり、それがそのまま、現代社会の人材育成に応用できるかどうかは分かりません。しかし、ダライラマのような高い人間性を備えた人材を育てる方法としては、この古典的な育成方法以外、効果的で良いやり方はないでしょう。知識優先ではない、特に、高い人間性をもつ人材を育てるための方法には、そのような古典的な方法以外、まだ見出されていません。ヨーロッパ社会では、社会的なリーダーは、貴族階級の出身者から選ばれる例が少なくありません。それは、そのような高い階級の出身者の場合、ゆっくりと時間とお金をかけて、人間性を高める教育ができるからでしょう。このことが、ヨーロッパの社会で、社会階層間の格差を生み出す原因になっていることも否定できません。
明治維新の日本社会でも、旧武士階級の人々には、歴史的に高い教育を受けてきた背景があり、支配階級に属する武士として、高い徳を身に着けるための教育を受けさせ、日本社会のリーダーとして生きる人材に育成することもできたのでしょう。また、当時の日本社会は、西洋の社会に早く追いつくことを命題としていました。ですから、日本社会はヨーロッパの先進国を手本とすれば良いと言う、後発国の有利さがありました。当時のリーダーに要求される能力の高さは、先進諸国のリーダーに要求される能力の高さに比べれば、低いものでも十分だったでしょう。
しかし、これからの時代の日本社会のリーダーに要求される能力の高さや徳の高さは、今、日本社会が直面している諸問題が、これまでに先進諸国も経験していない問題であることを考慮すると、先進諸国に先例を探すことはできないので、自らの力で考え出さなければならず、高い能力が要求されます。これからの日本社会のリーダーに求められる能力は、まだ解明されていない問題を分析し、その解明されていない問題に適合する解決策を見出す、高い能力です。その能力をもった人材が、今の日本社会には必要とされているのです。そのような人材を、日本社会は早急に育成しなければなりません。そのような人材の養成を可能にする教育ための制度や方法は、必ずしも最先端の集合教育、一斉授業とは限らないでしょう。