教育、学び、そして学校


教育制度の見直し

公開: 2024年5月21日

更新: 2024年9月3日

あらまし

明治維新になって、近代国家の建設に着手した明治政府は、当時の先進国の例に倣(なら)って、中央集権国家の建設を目指し、教育制度の確立を狙(ねら)い、学制を制定しました。そのとき、政府が目指したのは、日本経済の発展と、軍備の増強でした。経済の発展にも、軍備の増強にも、日本の国民全体の知識水準を、欧米諸国の水準まで引き上げる必要があったのです。そのため、フランスの制度を真似(まね)て、8年間の初等教育を義務教育としました。とは言え、当時の日本経済は、まだ低い発展状態にあり、定められた義務教育を十分に受けられる人々は、多くはありませんでした。

当時の人口3,000千万の日本社会では、一般の人々の生活はまだ苦しく、子供たちを長期に渡り学校へ通学させる経済的余裕のある家庭は、多くありませんでした。また、一般の人々の間では、江戸時代の階級の違いによって、就学前の知識の量の差が著しかったのです。特に、旧武士階級の家庭の子供たちと、農業や商業に従事していた多くの人々が属していた階級の家庭の子供たちとの間には、大きな知識の差がありました。旧士族階級の家庭の子供たちと、そうでない家庭の子供たちとの間には、「知っていること」と「学ぶ意欲」の両方に、極点な差があったのです。その社会的な現実が、明治政府の定めた学制の実施を大きく妨(さまた)げました。

それ以後、明治政府は教育政策の変更を行い、日本社会における義務教育の普及を進めるよう努力しました。さらに、明治憲法の制定に合わせて、天皇の名前で「教育勅語」を発し、第2次世界大戦で日本の政府が敗戦を認めて、ポツダム宣言を受け入れ、日本社会が民主化するまで、天皇制を基本として、富国強兵を目標とした大日本帝国建設のための臣民の育成を、最高の課題としてきました。戦後は、我が国の民主化が主たる命題となり、民主化された平和な日本を建設し、日本社会の経済発展を支える人材の育成が、教育基本法の最高命題とされました。しかし、天皇制大日本帝国社会の建設に資する人材と、民主的平和国家日本の経済発展に資する人材の育成の間には、教育現場で使う教育方法や、教育成果の評価に利用する指標に関して、基本的な違いはありませんでした。

つまり、義務教育の現場で利用される教育方法は、明治維新からの150年間、基本的にほとんど変わっていないのです。この150年間の間に、日本社会が置かれている状況は大きく変化しました。日本社会の人口は、5,000万人前後から、2,000年代に入ると、1億2,000万人を超えるほどの規模に成長しました。経済の規模では、GDPでは、1980年代に世界第2位となり、それを頂点として、2000年代に世界第3位、2024年に世界第4位にまで成長しています。1900年頃の日本のGDPは、ヨーロッパのチェコ、ハンガリー、ポーランドと同じ水準でした。しかし、日本社会における平均就学年数は、2.0年前後であり、チェコやハンガリーが、4.0年を超え、ポーランドが2.7年でした。ただし、国民一人当たりのGDPと平均就学年数を見た場合、日本は他の諸国に比較すると、突出して高かったと言えます。つまり、日本社会では、家計が貧しくても、子供たちを学校に通わせる傾向が強かったと言えます。

一橋大学の深尾京司氏の報告によれば、戦前の1885年から1940年までの約60年間における日本社会では、労働生産性が約3.3倍成長しました。その主たる要因は、急速な義務教育の普及による、知識水準の向上だったとされています。また、戦後の1955年から2015年までの60年間では、労働生産性は約10.2倍成長しました。この大幅な成長に寄与した要因には、日本社会全体が豊かになったことだとされています。この150年間全体を通じて言えることは、日本社会の家庭における教育への投資熱が高かったことと、教育現場で、一貫した教育方法が継続して採られていたことです。これらの日本社会全体に一貫していた教育に対する姿勢が、近年の教育現場における、「不登校」問題、「いじめ」問題、そして社会における「少子化」問題などの原因になっていることも否定できません。今、日本の教育や教育制度は見直さなければならない状況になっています。

教育制度の見直し

明治維新になって、近代国家の建設に着手した明治政府は、当時の先進国の例に倣(なら)って、日本の近代化を目指した近代的教育制度の確立を狙(ねら)い、学制を制定しました。そのとき、政府が目指したのは、日本経済の拡大・発展と、近代的な軍の整備・軍備の増強でした。経済の発展にも、軍備の増強にも、日本の国民全体の知的水準を、欧米諸国の水準にまで引き上げる必要がありました。そのために、フランスの制度に倣い、8年間の初等教育を義務教育としました。とは言え、当時の日本経済の発展は、まだ低い状態にあり、定められた義務教育を十分に受けられる人々は、現実には多くはありませんでした。

当時の日本社会では、一般の人々の生活は苦しく、子供たちを8年もの長期に渡り、学校へ通学させる余裕のある家庭は、多くありませんでした。また、一般の人々の間では、江戸時代の階級の違いによって、就学前の知識の量の差が著しかったのです。特に、旧武士階級の家庭の子供たちと、農業や商業に従事していた多くの人々が属していた階級の家庭の子供たちとの間には、大きな知識の差がありました。旧士族階級の家庭の子供たちと、そうでない家庭の子供たちとの間には、「知っていること」と「学ぶ意欲」の両方に、極点な差があったのです。その社会的な現実が、明治政府の定めた学制の実施を妨(さまた)げました。

それ以後、明治政府は教育政策の変更を行い、日本社会における義務教育の普及に勤めるよう努力しました。さらに、明治憲法の制定に合わせて、天皇の命で「教育勅語」を発し、第2次世界大戦で日本の政府が敗戦を認めて、ポツダム宣言を受け入れ、日本社会が民主化するまで、天皇制を基本として、富国強兵を目標とした大日本帝国建設のための臣民の育成を、最高の課題としてきました。戦後は、我が国の民主化が主たる命題となり、民主化された平和な日本を建設し、日本社会の経済発展を支える人材の育成が、教育基本法の最高命題とされました。しかし、天皇制大日本帝国社会の建設に資する人材と、民主的平和国家日本の経済発展に資する人材の育成の間には、教育現場で使う教育方法や、教育成果の評価に利用する指標に関しては、基本的な違いはありません。

つまり、義務教育の現場で利用される教育方法は、明治維新からの150年間、基本的にほとんど変わっていないのです。しかし、この150年間の間に、日本社会が置かれている状況は大きく変化しました。日本社会の人口は、5,000万人前後から、2,000年代に入ると、1億2,000万人を超えるほどの規模に成長しました。経済の規模では、GDPでは、1980年代に世界第2位となり、それを頂点として、2000年代に世界第3位、2024年に世界第4位にまで成長しています。1900年頃の日本のGDPは、ヨーロッパのチェコ、ハンガリー、ポーランドと同じ水準でした。しかし、日本社会における平均就学年数は、2.0年前後であり、チェコやハンガリーが、4.0年を超え、ポーランドが2.7年でした。ただし、国民一人当たりのGDPと平均就学年数を見た場合、日本は他の諸国に比較すると、突出して高かったと言えます。つまり、日本社会では、家計が貧しくても、子供たちを学校に通わせる傾向があったと言えます。

一橋大学の深尾京司氏の報告によれば、1885年から1940年までの約60年間における日本社会では、労働生産性が約3.3倍成長しました。深尾氏の分析によれば、その主たる要因は、急速な義務教育の普及による、知識水準の向上だったとしています。また、戦後の1955年から2015年までの60年間では、労働生産性は約10.2倍成長しました。深尾氏は、この大幅な成長に寄与した要因が、日本社会全体が豊かになったことだとしています。この150年間全体を通じて言えることは、日本社会の家庭における教育への投資熱が高かったことと、教育現場で、一貫した教育方法が継続して採られていたことです。これらの日本社会全体に一貫していた教育に対する姿勢が、近年の教育現場における、「不登校」問題、「いじめ」問題、そして社会における「少子化」問題などの原因になっていることも否定できません。日本の教育や教育制度は見直さなければならない状況になっています。

明治維新の教育改革がそうであったように、時代が大きく変わった現代、新しい世界に適合した、「新しい国家像」とそれに合った、「新しい教育目標」「新しい教育制度」の確立が必要になっています。この新しい状況に対応する「新しい国家像」の再構築をせず、いたずらに従来と同じ教育行政を続ければ、長期的には、国家としての日本の存続を、長期的な視点で危うくする結果になるでしょう。特に、これからの20年から30年間を考えると、日本経済の凋落(ちょうらく)と、国家としての日本の国力の衰退を招く可能性が高いでしょう。現在、日本社会の一人当たりのGDPは、ブルネイとバハマと、韓国、スペインに並んで、世界で30位以下になっています。ドイツやイギリスが20位前後であるのと比較すると、先進国の中では、低い位置に留まっています。日本社会は、世界的には貧しい国になりつつあります。この現状を放置することはできません。

新しい日本の国家像として、私たちは、どのような国家像を持つべきなのでしょうか。現在、日本の人口は、約1億2千万人前後です。この人口は、1億人前後にまで減ることが予想されています。この人口減少は、日本の生産性を引き下げます。それは、人口に比例した減少ではなく、規模の効果が影響して、より大きな減少になることが理解されています。つまり、12分の10、すなわち6分の5への約15パーセントの減少ではなく、GDPで言えば、より大きな20パーセントに近い減少になるでしょう。そのような日本の経済規模の縮小を、私たち国民は受け入れられるのでしょうか。

ここでは、日本の社会を、戦前のような天皇を国家の主権者として、国民は主権者である天皇を支え、国家の経済と防衛力を拡大すること(「富国強兵」)を最優先の課題とする、保守的な天皇制を中心とした考え方は採りません。むしろ、第2次世界大戦後に制定された日本国憲法で示された、平和で文化的な国家像を維持し、安定した日本経済の維持・発展と、世界の平和と発展に積極的に貢献する国家として、長期的に繁栄することに重点を置いた、平和・文化国家としての日本の建設を重視する立場を採用します。従って、そのような国家の教育政策は、そのような国家像の実現に貢献できる人材の育成に焦点を当てた政策になります。

そのためには、(1)科学技術の進歩に貢献できる能力を持った人材を育成すること、(2)世界の多様な文化や風習を理解し、特別な偏見を持たずに、日本固有の文化や風習との融合を提案できる能力を持った人材を育成すること、(3)日本で生み出された新しい思想や視点を世界に向かって説明し、その優れた点を説得できるコミュニケーション能力を持つ、世界的視野を持った人材を育成することなどが、必要でしょう。そのような人材の育成には、これまでの日本社会が重視してきた、「決まり切った秀才」をモデルとした評価基準や理想像に基づいた人材育成の方法は、合理的な方法とは言えなくなるでしょう。

既に、いくつかの先進国で試行されている新しい教育方法の導入や、新しい人材評価の方法などを踏まえて、革新的な教育を提案し、実践されている例があります。それは、従来の日本社会では普通であった学力の定義や測定方法では、実現できないものである可能性が高いからです。それは、日本社会が百数十年前に、ひな形として導入したヨーロッパ社会での最先端の学力の定義や、学力の測定方法が、有効に機能しなくなり、ヨーロッパの多くの社会で、新しい学力の定義や測定方法の開発が求められていることからも、明らかでしょう。日本の社会は、ヨーロッパ社会から少し遅れて、ヨーロッパ式の教育政策を導入しましたが、今や、現代の世界では、その教育政策は、有効ではなくなったことが認識されているのです。

これからの世界では、従来の世界では最も効果的であると言われていた、「集団教育」の弊害(へいがい)が問題になっており、学習進度別のクラス分けを採用しても、その改善が限定的であることが分かっているからです。また、学習成果の評価についても、選択式の試験による学習成果の評価では、「理解していること」と「記憶していること」の区別がつかないことから、評価の精度の問題が議論されるようになっています。これらの教育学の課題を克服するため、新しい教育方法の導入が求められています。その極端な例が、「集団教育」の対極にある「個人教育」です。

これまで、個人教育の方法は、個々の学習者に対応しなければならないと言う問題から、教育対象者が増えると、教育のコストが爆発的に増大すると考えられていました。しかし、近年の人工知能技術の進歩によって、その技術を活用することで、複数の学習者を対象にして、一人の教員と、各学習者別に対応した人工知能を搭載したコンピュータを利用することで、疑似的な個人教育を、同時に多数の学習者を対象に実施することも可能になりつつあります。課題は、そのような人工知能を応用したソフトウェアを開発できるかどうかになります。これは、将棋の対局を見て、過去の対局記録に基づき、どちらの棋士が有利な立場にあるのかを判定する問題に似ています。

つまり、これからの日本社会の教育制度の変革には、そのような人工知能を搭載したソフトウェアを企画・開発できる人材の育成も重要になります。さらに、そのような新技術を有効に利用して、次の世代の人材を育成する教育教材を開発できる人材の育成が、カギになるでしょう。その意味では、これからの日本社会の教育政策に求められるのは、新しい国家像の実現に至るまでの過程で、その社会的基盤(インフラストラクャー)づくりのための人材育成も、準備段階の進め方の一つとして、重要な問題の一つに含まれます。さらに、時代遅れになった義務教育の枠外に置かれたままの高校教育を、義務教育に組込み、21世紀の社会を築くための人材を育成するようにしなければなりません。それは、現在の憲法で、全ての国民に保証されている「学ぶ権利」のはずです。

(つづく)