公開: 2024年5月14日
更新: 2024年8月26日
教育プログラムや教育制度の有効性をどのように測り、その結果に基づいて、「何を」、「どう」改善すべきかを考えることは、現代的な管理の理論の根幹です。これは、管理の基礎として知られている、「計画立案」(計画し)、「計画実施」(実施して)、「結果測定」(結果を見て)、「評価と対応」(対応する)の「管理サイクル」を完結することが重要であるとの考え方に基づいています。教育効果の測定は、その意味で、教育制度を見直す場合にも、教育方法の改善点を見出す場合にも、重要なことの一つです。ただ、教育制度を見直す場合でも、教育方法を改善するために評価を行う場合と、教育制度を見直し、改革を行うための評価尺度は、同一のものではありません。教育方法を評価する場合には、教育対象である児童生徒が限定されており、その教育対象に対して、適用する教育方法が適切であるかどうかを知るため、問題となっている方法を使った場合と、そうではない、一般的な方法による教育の成果を比較すれば良いのです。しかし、「教育制度を見直す場合」には、教育対象となる児童・生徒は時代とともに変化します。評価を行う期間の長さも長期になるため、評価は極めて難しくなります。
教育方法を評価するための、教育効果の測定を考えてみましょう。例えば、一斉授業方式と、個別授業方式を比較・検討する場合に用いる測定方法を考えましょう。この場合には、教育対象となる児童・生徒の学習の習熟度をどのように測るかが問題になります。大人数のクラスを考える場合、クラスの児童・生徒の集団の中の平均的な学習進度の対象(児童・生徒)を問題にするのか、集団の中でもやや低い学習「習熟度」の児童・生徒を対象とするのか、集団の中でもやや高い学習習熟度の児童・生徒を対象とするのかによって、評価の仕方は異なります。さらに、教育効果として、どのような要素に着目するのかによって、測定すべき項目や測定方法が変わるので、それによって評価結果は大きく影響されるでしょう。例えば、授業前と授業後の知識の差を比較する試験結果で見る場合と、教育対象者が授業内容に興味を抱き、積極的に発言できたかなどの「授業への参加度」を見る場合とでは、測定方法や観察内容などが大きく異なります。前節で説明した「学び合い」方式の授業では、児童・生徒の「授業への参加度」(例えば、授業中の意見発表の回数など)が、測定の重要な項目になっています。
この例からも分かるように、教育効果の測定と言っても、一つの基準や測定方法で、全てを評価することはできません。また、単純に、授業の実施前と実施後での知識の量の差を比較する場合でも、知識を「どのようにとらえるか」によって、測定の方法は変わってきます。それは、単に(1)「問題となっている知識を知っているかどうか」を調べるのか、(2)「問題となっている知識と、それに類似した知識を明確に区別できるか」を調べるのか、(3)「問題となっている知識を、他人に説明できるか」を調べるのか、(4)「問題となっている知識を使って、典型的な問題を解決できるか」を調べるのか、(5){問題となっている知識を使って、現実の社会にある一般的な問題を解決できるか」を調べるのか、(6){問題となっている知識を使って、他人が行った問題解決の「良し悪し」を正しく評価できるか」を調べるのかなど、知識の深さを問題にするかどうかで、測定方法と測定項目は、変わってきます。これらの知識の深さの第3段階までは、選択形式の試験でも評価できますが、第4段階以上になると、選択形式での試験では、評価が難しくなります。特に、第5段階以上になると、実際の活動を見て、経験豊かな評価者数名が観察し、議論しないと、評価はできません。
つまり、義務教育の現場で一般的な、選択式の解答方式を使った試験では、知識を問うだけの場合でも、第2段階以上になると、正しい評価ができるかどうかは疑問です。日本の社会における義務教育では、一斉授業で知識を説明し、その結果を単純な選択方式の試験で測定しているので、簡単な知識の場合には問題はありませんが、知識が高度になり、複雑に絡み合う、現代社会の知識を議論する場合には、十分な評価ができているかどうかは分かりません。OECDのPISAの標準試験では、記述式の問題に対して、記述式の解答を求める例があるのは、複雑な知識を組み合わせなければ解けない問題を解くことが要求される社会で、活躍できる人材を育成することが必要になることを想定した、人材の評価が、先進諸国に求められているからなのです。その意味で、日本社会の義務教育で実施されている教育と、そこで使われている教育効果の測定法は、先進諸国の例から考えると、半世紀ほど遅れている方法です。
また、教育方法に関して言えば、「どの学年では、どんな知識を、どの深さまで教えるか」の国際的標準を設定すべきであるとの議論が世界的に始まっています。これは、出身国によって、学歴と学習内容が大きく異なる問題が表面化しているため、世界標準を設定して、年齢ではなく、学習歴とその成果についての評価で、対象者の知識を明確に説明できるようにしようとする試みです。単に、科目名と成績ではなく、科目の構成内容と、知識項目別の評価を、標準化することによって、個人の能力を世界標準で把握できるようにしようと言う試みです。世界の労働市場を単一市場にして、世界の人々が公平に競争できるようにするためには、そのような仕組みや制度が必要になるからです。2020年頃、日本社会で義務教育を受けている小中学生が、実社会で活躍するようになる2035年頃には、米国社会で育った人と、日本社会で育った人が、同一の企業に入社し、一緒に働く光景が普通になるかも知れません。そのためには、個々人が何を知っていて、何ができるかを、国際的な基準で評価できなければならないのです。そのような時代の要請に適合しなくなっている学習進度の指標を、今でも、あたかもそれが唯一の評価指標であるかのように信じて、利用し続けている日本社会の将来には、問題が隠れていると言えます。
教育プログラムや教育制度の有効性をどのように測り、その結果に基づいて、「何を」、「どう」改善すべきかを考えることは、現代的な管理の理論に基づいた基本的な手順です。これは、管理の基礎として知られている、「計画立案」、「計画実施」、「結果測定」、「評価と対応」の「管理サイクル」を完結することが重要であるとの考え方に基づいています。教育効果の測定は、その意味で、教育制度を見直す場合にも、教育方法の改善点を見出す場合にも、重要な手段の一つです。ただ、教育制度を見直す場合でも、教育方法を改善するために評価を行う場合と、教育制度を見直し、改革を行うための評価尺度は、同一のものではありません。教育方法を評価する場合には、教育対象である児童生徒が限定されており、その教育対象に対して、適用する教育方法が適切であるかどうかを知るため、問題となっている方法を使った場合と、そうではない、一般的な方法による教育の成果を比較すれば良いのです。しかし、教育制度を見直す場合には、教育対象となる児童・生徒は時代とともに変化します。評価を行う期間の長さも長期になるため、評価は極めて難しい問題になります。
最初に、教育方法を評価するための、教育効果の測定を考えてみましょう。例えば、一斉授業方式と、個別授業方式を比較・検討する場合に用いる測定方法を考えましょう。この場合は、教育対象となる児童・生徒の学習の習熟度をどのように測るかが問題になります。大人数のクラスを考える場合、クラスの児童・生徒の集団の中の平均的な学習進度の対象(児童・生徒)を問題にするのか、集団の中でもやや低い学習習熟度の児童・生徒を対象とするのか、集団の中でもやや高い学習習熟度の児童・生徒を対象とするのかによって、評価の仕方は異なります。さらに、教育効果として、どのような要素に着目するのかによって、測定すべき項目や測定方法が変わるので、評価結果は大きく変わるでしょう。例えば、従来の学習効果を評価するための、授業前と授業後の知識の差を比較する試験結果で見る場合と、教育対象者が授業内容に興味を抱き、積極的に発言できたかなどの「授業への参加度」を見る場合とでは、測定方法や観察内容などが大きく異なってきます。前節で説明した「学び合い」方式の授業では、児童・生徒の「授業への参加度」(例えば、授業中の意見発表の回数など)が、測定の重要な項目になります。
この例からも分かるように、教育効果の測定と言っても、一つの基準や測定方法で、全てを評価することはできません。また、単純に、授業の実施前と実施後での知識の量の差を比較する場合でも、知識を「どのようにとらえるか」によって、測定の方法は変わってきます。それは、単に(1)「問題となっている知識を知っているかどうか」を調べるのか、(2)「問題となっている知識と、それに類似した知識を明確に区別できるか」を調べるのか、(3)「問題となっている知識を、他人に説明できるか」を調べるのか、(4)「問題となっている知識を使って、典型的な問題を解決できるか」を調べるのか、(5){問題となっている知識を使って、現実の社会にある一般的な問題を解決できるか」を調べるのか、(6){問題となっている知識を使って、他人が行った問題解決の「良し悪し」を正しく評価できるか」を調べるのかなど、知識の深さを問題にするかどうかで、測定方法と測定項目は、変わってきます。これらの知識の深さの第3段階までは、選択形式の試験でも評価可能ですが、第4段階以上になると、選択形式での試験では、評価が難しくなります。特に、第5段階以上になると、実際の活動を見て、経験豊かな評価者数名が観察し、議論しないと、評価はできません。
つまり、現在の日本の義務教育の現場で一般的な、選択式の解答方式を使った試験では、知識を問うだけの場合でも、第2段階以上になると、正しい評価ができるかどうかは疑問です。日本の社会における義務教育では、一斉授業で知識を説明し、その結果を単純な選択方式の試験で測定しているわけなので、簡単な知識の場合には問題はありませんが、知識が高度になり、複雑に絡み合う、現代社会の知識を議論する場合には、十分な評価ができているかどうかは分かりません。OECDのPISAの標準試験では、記述式の問題に対して、記述式の解答を求める例があるのは、複雑な知識を組み合わせなければ解けない問題を解くことが要求される社会で、活躍できる人材を育成することが必要になることを想定した、人材の評価が、先進諸国に求められているからなのです。その意味で、日本社会の義務教育で実施されている教育と、そこで使われている教育効果の測定法は、先進諸国の例から考えると、半世紀ほど遅れている方法です。
もうひとつ、教育方法に関して言えば、「どの学年では、どんな知識を、どの深さまで教えるか」の国際的標準を設定すべきであるとの議論が世界的に始まっています。これは、人々の出身国によって、学歴と学習内容が大きく異なる問題が表面化しているため、世界標準を設定して、年齢ではなく、学習歴とその成果についての評価で、対象者の知識を明確に説明できるようにしようとする試みです。単に、科目名と成績ではなく、科目の構成内容と、知識項目別の評価を、標準化することによって、個人の能力を世界標準で把握できるようにしようとする試みです。世界の労働市場を単一市場にして、世界の人々が公平に競争できるようにするためには、そのような仕組みや制度が必要になるからです。2020年頃、日本社会で義務教育を受けている小中学生が、実社会で活躍するようになる2035年頃には、米国社会で育った人と、日本社会で育った人が、同一の企業に入社し、一緒に働く光景が普通になるかも知れません。そのためには、個々人が何を知っていて、何ができるかを、国際的な基準で評価できなければならないのです。そのような時代の要請に適合しなくなっている学習進度の指標を、今でも、あたかもそれが唯一の評価指標であるかのように信じて、利用し続けている日本社会の将来には、問題が隠れていると言えます。
次に、教育制度の有効性を評価するための指標と、測定方法です。この問題は、教育方法や教育プログラムなどの学習者個人や、限定された学習者集団を対象とした学習成果の測定のための方法に比較すると、はるかに複雑で、困難な問題です。その理由は、第一に、評価対象となる学習者の集団自体が、評価期間中に時々刻々と変化することです。さらに、評価を必要としている特定の社会も、時々刻々と変化を続けており、効果を評価するための評価項目も、社会の変化に対応して、変わる可能性があるからです。日本社会を例にとれば、70年ほど前まで、日本社会の教育制度を評価するための最も重要な評価項目には、「我が国の軍事力(すなわち、国民の平均的な体力の向上と、工業生産における生産性向上をもたらす科学的な知識水準の向上など)と、他国の軍事力との競争で有利立場に立つために、個々の国民の肉体的健康と知的水準の向上をもたらすこと」でした。しかし、第2次世界大戦後の社会では、目的そのものが、「我が国の科学技術力を向上させることによって、我が国の経済活動を活発にし、国家・社会の経済発展を可能にする人材を可能な限り多く育成すること」に変わりました。第2次世界大戦までは、全ての国民が、同じ思想に従って、同じように行動・活動できることが求められていましたが、第2次世界大戦後の社会では、個々人がそれぞれの能力を発揮できることが重要になりました。
このことから言えることは、教育制度の目的によって、制度の有効性を評価するための指標は、変化せざるをえないことです。つまり、ある社会の将来における「望ましい姿」が明確にならない限り、その社会の教育制度を適切に評価するための指標を決めることはできないのです。現代の日本社会についていえば、日本社会の将来像が明確に示されていなければ、現代日本社会の教育制度を考え、その制度の是非を評価するるための評価項目や評価指標を決定することはできません。社会の将来像や目的から、その社会における現状を評価するための指標を決めるための手法として、「ゴール(目標)」、「質問」、「評価指標」の順序で、段階的に問題を明確化する方法があります。ゴールが明確に設定されれば、そのゴールが達成されたとき、どのような状態に到達するかを説明する「文章」を決めることができます。その「文」を疑問文の形で表現したのが、「質問」です。この「質問」を明確にできれば、その疑問文に答えるために、「何」が「どのようになるべき」かの、評価指標を決めることができます。
現代の我が国の社会において、今、最も重要な課題(イシュー)は、「日本社会の将来像について、国民の間に、明確なイメージが共有されていないため、社会の目標やゴールを文章に表現できていない」ことです。各分野の専門家たちは、それぞれの立場で、我が国の将来について、あるべき姿を述べています。しかし、日本社会全体として、まとまったイメージを示した文章は存在しません。これは、一般的には「政治」の問題です。それは、日本社会が20年後、50年後の世界で、どのような役割を担い、世界に対して、どのような貢献を為すべきか、世界的な問題に対して、どれくらいの負担を我が国が負うべきかについて、大枠で、全体像を与えるものです。現在、我が国の国民の間に、そのような意味で、共有されている将来像はありません。それは、国民が共有できる倫理的な目標、日本国民が共有する使命感、国民が慣習として踏襲している文化的・伝統的習慣や価値観など、共有している無形の伝統・文化がないことを意味しているでしょう。日本社会がこれからの世界で、どのように発展してゆくべきかの道筋が描けていないことを意味しています。
明治維新以来、先進諸国に追いつき、肩を並べることだけを目標にしてきた日本社会でしたが、第2次世界大戦の敗北で、国民の間では、一時的に明確な目標が見失なわれました。とは言え、1980年代までは、多くの日本人が、社会の経済発展・復興を目標にして、ひたすらGDPの拡大を追いかけてきました。しかし、1990年代に入って、いわゆる「バブルの崩壊」をきっかけに、GDP世界第二位の経済規模を成し遂げ、「世界に追いつくこと」を目指してきた国民共通の目標が達成されると、日本の国民は、新たな目標を見出せなくなっていました。日本の急激な経済発展を目にした米国社会のリーダー達の「日本の台頭を止めろ」との共通認識が広まると、クリントン政権は「ドル安誘導戦略」を採用し、日本社会全体のコストが急上昇したため、日本製品の国際市場における市場競争力は、急激に低下しました。この1995年の「日本経済の衰退」の始まりから、日本社会は、自分たちの社会の現状認識を誤り続け、経済の改革と、社会の改革を怠り、ひたすら目前の問題解決に追われてきました。世界の全体像を把握しないまま、対処療法を続けてきたため、今では、全ての問題が複雑に絡み合い、解決が難しくなっています。
この状況の中で、将来を見据えた抜本的な社会の建設を行うためには、その使命を貫徹する強い意志を持ったリーダー人材と、行政機関において、その改革の断行を支える有能な人材、そして、何よりも我が国の社会が直面している様々な問題を認識できる多数の国民を育成しなければなりません。今、日本社会が直面している様々な問題を認知し、その原因を究明し、正しい解決策を提案または判断できる、国際的な視野を持ったリーダーや、それを支える人々を養成できなければ、日本社会はどんどん衰退してゆくでしょう。現在、ドイツに次いで、世界第四位の経済規模を誇っている我が国の経済は、遅かれ早かれ、新興国のインドに抜かれ、世界第五位の規模に低下します。現段階で、それを防ぐことはできません。問題は、インドの次に経済規模を拡大する新興国に追いつかれ、追い越されないようにすることです。日本と似たような経済構造を持ち、日本よりもはるかに人口の少ないドイツに追いつかれ、追い越されたことは、1995年以降の日本の国家としての経済運営が、誤っていたことを物語っています。まずは、日本経済をドイツと同じような水準にもどさなければなりません。
そのために必要な社会改革に伴う経済的な苦しみを、日本社会で生活している国民が甘んじて受け、耐えることができるかどうかが、日本再生の分かれ目になるでしょう。日本社会は、これから、急激な高齢化を迎えようとしています。また、それと同時に、少子化の問題を抱えています。歴史上、人口が減っても、栄え続けた社会はありません。人口が減れば、経済規模も縮小するので、その社会を支えている国家の国力は低下するのです。その意味では、これからの日本社会は、高齢化を乗り切ると同時に、人口減少をどう食い止めるかに挑戦しなければなりません。高齢化の問題は、「貧しさ」をどう克服するかの問題になります。人口の現象を阻止する問題は、社会構造の変革なしには解決できません。これらの社会課題を克服できる国民を育成するのが、日本社会の義務教育の目標になるでしょう。そのような教育制度の成果を正しく評価するための尺度や、それを測る方法は、まだ分かっていません。日本社会と日本人は、この未解決な問題に挑戦してゆかなければなりません。