教育、学び、そして学校


教育制度・方法の改革

公開: 2024年4月27日

更新: 2024年8月25日

あらまし

日本の義務教育の教育現場では、21世紀に入ってから、「いじめの問題」や「不登校の問題」が、解決すべき問題として注目され、社会的に議論されています。もちろん、これらの問題は、20世紀の中頃には一部の専門家たちの間で、議論されていました。しかし、現実に日本社会の問題として認識された例は少数だったため、見過ごされていたのです。21世紀に入って、これらの問題に関する社会的な関心が高まり、広く報道される例も多くなって、人々の目を引くようになりました。文部科学省も、実際の事例をまとめ、報道するようになり、各教育機関に対して、その発生実態の報告を求めるようになりました。そのような行政機関の対応が進むと、各教育機関からの報告例も増加しました。この数字上の増加は、本来の発生数が多かったのかもしれませんし、本来の発生数が多かったことと、別の原因も重なって、少しずつ増加する結果になったのかもしれません。昔からの正確なデータが残されていないため、実態を正確に知ることは、まだできていません。いずれにしろ、教育現場で起きている事例の数は、すでに、無視できないほど多いのです。

これらの問題の根源は、日本の義務教育の現場で採用されている教育方法が、約150年間に渡って、ほとんど改善されてこなかったことにあると言えるでしょう。それは、一人の教員が、多数の児童・生徒に対して、同じ説明をすると言う、効率の良い、「一斉授業方式」を採用していること、落第のない、「年齢別のクラス編成」にあると言えます。このことにより、クラス内の半分近い児童・生徒が、教員の説明を理解できない状態に陥る可能性があるからです。日本の明治時代の義務教育であれば、教えなければならない内容は、量も少なく、難易度も低かったため、教室内の大半の児童・生徒が理解できる水準のものだったかもしれません。しかし、科学技術が進歩した現代社会では、児童・生徒が学ばなければならない知識の量と質は、50年前の社会とでは、比較ができないほど増加・高度化しました。授業のクラス編成を学習進度別に変えるだけでも、児童・生徒の授業内容についての理解は、大きく向上するはずです。

義務教育を担っている教育機関での授業方法が変わらないのは、第1に、政府が義務教育に投入する予算額が、少ないからです。これは、他の先進諸国と比較すれば、明らかです。日本社会と同じように、政府の義務教育への予算投入が少ない国に、米国があります。ただし、米国社会では、教育税は、「受益者負担」の性格がある地方税の占める比率が高く、学区によって異なります。米国社会では、裕福な人々が多い地域では、PTAの力が強く、高い教育税を徴収して、教員の給与に配分したり、学校で利用する施設改善への支払いに当てることができます。これは、日本の義務教育予算が、ほぼ全国一律で、教員へ支払われる給与の予算でさえ、十分ではない状況と比較すると、大きな差があるのです。義務教育の改善を考える時、日本の教育における最大の課題は、教育関係の予算を増やすことだと言えるでしょう。教育、特に義務教育は、その成果が明らかになるのに、20年から30年の時間を要します。結果が出てから、対応をするのでは、手遅れなのです。今すぐに対応すべきなのですが、子供たちの親には、他国の義務教育や教育制度は見えないため、問題が理解できないのです。

子供たちの親にとっては、分かり易い、身近な、知り合いの家族の子供たちとの比較の方が、分かり易く、気になるのです。米国社会の子供たちの教育環境との違いは、知識がないため、全く、気にならないのです。しかし、20年後,30年後の社会で、働くようになる子供たちは、世界的な競争の中で、将来、本当に苦しむことになるかも知れません。その時に、自分たちが受けた教育に関する問題が分かったとしても、手遅れなのです。そこに、教育改革の難しさがあります。これまでの世界では、日本人は、個人の忍耐力に支えられた個人の努力によって、世界各国の人々との競争で、互角以上の戦いをしてきました。しかし、世界中の人々が、真剣に競争に参加するようになり、この日本人の特性は、働きにくくなりつつあります。むしろ、独創的な視点からの提案ができる、他国で教育された人々の能力の方が、成果を出しやすくなっています。21世紀に入って、日本社会の世界経済への貢献度が低くなっているのは、そのような理由もあるからだと言えるでしょう。技術の進歩によって、明らかに、日本の人々と、世界の人々との競争の仕方は、変わりつつあるのです。

義務教育へ投入する国家の財政支出を増やすことにより、第一には、教員の数を増やし、教員の給与など、「待遇」を良くすることができます。日本社会では、教員は、一年中、完全に拘束されているので、時間があったとしても、他の仕事に従事することは、法律で禁じられています。このことが、日本社会では、教員に、教育以外の仕事をさせない慣習が生まれました。例えば、授業を除けば、部活の指導など以外には、教員が従事することはできません。最近では、部活の指導に関わっている教員には、休日の指導など、多大な負担がかかることが、問題になっています。教員が、部活などの指導に従事する場合は、その教員に、正当な部活の指導手当を支給すべきでしょう。そうなれば、部活指導の人件費は、学校教育の費用として、別途、計上されることになります。もう一つの改革は、義務教育での教科を、児童・生徒のニーズに合わせて、調整できるように、必須科目選択科目に分け、卒業のために要求する必須科目と、その科目について、要求される知識水準の基準を設定することです。

教育制度・方法の改革

日本の義務教育の教育現場では、21世紀に入ってから、「いじめの問題」や「不登校の問題」が、解決すべき問題として注目され、社会的に議論されています。もちろん、これらの問題は、20世紀の中頃には日本社会の一部で、問題視されていました。しかし、現実には、日本社会の問題として広く認識された例が少数だったため、社会では見過ごされていたのです。21世紀に入って、これらの問題に関する社会的な関心が高まり、報道される例も多くなって、人々の目を引くようになりました。文部科学省も、実際の事例をまとめ、報道するようになり、各教育機関に対して、その発生例の報告を求めるようになりました。そのような行政機関の対応が進むと、各教育機関からの報告例も増加しました。この数字上の増加は、本来の発生数が多かったのかもしれませんし、本来の発生数が多かったことと、別の原因もあり、少しずつ増加する結果になったのかもしれません。昔からの正確なデータが残されていないため、実態を正確に知ることは、まだできていません。いずれにしろ、教育現場で起きている事例の数は、無視できないほど多いのです。

これまで議論してきたように、これらの問題の根源は、日本の義務教育の現場で採用されている教育方法が、約150年間に渡って、ほとんど改善されてこなかったことにあると言えるでしょう。それは、一人の教員が、多数の児童・生徒に対して、同じ説明をすると言う、効率の良い、一斉授業方式を採用していること、落第のない、年齢別のクラス編成にあると言えます。このことにより、クラス内の半分近い児童・生徒が、教員の説明を理解できない状態に陥る可能性があるからです。日本の明治時代の義務教育であれば、教えなければならない知識は、量も少なく、難易度も低かったため、教室内の大半の児童・生徒が理解できる水準のものだったかもしれません。しかし、科学技術が進歩した現代の社会では、児童・生徒が学ばなければならない知識の量と質は、50年前の社会とでは、比較ができないほど増加・高度化しました。それでも、教員が授業で用いている教授法は、50年前の教授法と比較して、ほとんど変わっていないのです。授業のクラス編成を学習進度別に変えるだけでも、児童・生徒の授業内容についての理解は、大きく向上するはずです。

それにもかかわらず、義務教育を担っている教育機関での授業方法が変わらないのは、第1に、政府が義務教育の運営に投入する予算額が、少ないからです。これは、他の先進諸国と比較すれば、明らかです。日本社会と同じように、政府の義務教育への予算投入が少ない国に、米国があります。ただし、米国社会では、教育税は、受益者負担の性格がある地方税の占める比率が高く、学区によって異なります。米国社会では、裕福な人々が多い地域では、PTAの力が強く、高い教育税を徴収して、教員の給与に配分したり、学校で利用する施設改善への支払いに当てることができます。これは、日本の義務教育予算が、ほぼ全国一律で、教員へ支払われる給与の予算でさえ、十分ではない状況と比較すると、大きな差があるのです。義務教育の改善を考える時、日本の教育における最大の課題は、教育関係の予算を増やすことだと言えるでしょう。教育、特に義務教育は、その成果が明らかになるのに、20年から30年の時間を要します。結果が出てから、対応をするのでは、手遅れなのです。今すぐに対応すべきなのですが、子供たちの親には、他国の義務教育や教育制度が理解できないため、問題が分からないのです。

子供たちの親の多くにとっては、身近な、知り合いの家族の子供たちとの比較の方が、分かり易く、気になるのです。米国社会の子供たちの教育環境との違いは、知識がないため、全く、気にならないのです。しかし、20年後,30年後の社会で、働くようになる今の子供たちは、世界的な競争の中で、将来、本当に苦しむことになるかも知れません。その時に、自分たちが受けた教育に関する問題が分かったとしても、手遅れなのです。そこに、教育改革の難しさがあります。これまでの世界では、日本人は、個人の忍耐力に支えられた個人の努力によって、世界各国の人々との競争で、互角以上の戦いをしてきました。しかし、世界中の人々が、真剣に競争に参加するようになり、この日本人の特性は、働きにくくなりつつあります。むしろ、独創的な視点からの提案ができる、他国で教育された人々の特性の方が、成果を出しやすくなっています。21世紀に入って、日本社会の世界経済への貢献度が低くなっているのは、そのような理由もあるからだと言えるでしょう。技術の進歩によって、明らかに、日本の人々と、世界の人々との競争の仕方は、変わりつつあるのです。日本の社会しか知らない子供たちも、その親たちも、今は、そのような現実を認識することができません。

義務教育へ投入する国家の財政支出を増やすことにより、第一には、教員の数を増やし、教員の給与など、「待遇」を良くすることができます。米国社会では、小学校の教員や中学校の教員は、長い夏休み期間中には、学校での仕事がなくなるため、別の仕事に従事することもできます。家庭教師のような仕事もありますが、郵便配達や、不動産販売の仕事に従事している人たちも少なくありません。これに対して、日本の教員は、一年中、完全に拘束されているので、時間があったとしても、他の仕事に従事することは、法律で禁じられています。このことが、日本社会では、教員に、教育以外の仕事をさせない慣習が生まれました。例えば、部活の指導などです。最近では、部活の指導に関わっている教員には、休日の指導など、多大な負担がかかることが、問題になっています。このような、慣習の違いなども、日本の親や子ども達には、分からないのです。仮に、教員が、部活などの指導に従事する場合は、その教員に、正当な部活の指導手当を支給すべきでしょう。そうなれば、部活指導の人件費は、学校教育の費用として、別途、計上されることになります。それは、教育に必要な人件費を増加させる結果になります。

近年、子供たちの教育に、様々な機器の導入が必要になっています。そのような教育のための機器の購入や、借り入れのための予算は、しばしば、莫大な予算が必要になります。それを規模の小さな市町村などの地方自治体の予算で充当することは、少子高齢化が進みつつある地方では、税収が減っていることもあり、困難になる例は珍しくありません。例えば、生徒や児童が利用するタブレット端末の購入予算などです。教育関係の予算が少なければ、機器の導入が遅れるため、遅れた地域に住む児童や生徒は、そうでない地域の児童や生徒と比較すると、勉学に不利が生じます。総合的な学力も低下するでしょう。文部科学省は、全国の学校にその機器を導入できる予算が獲得できなければ、不公平が生じるため、日本全国の学校に、そのような機器を利用する学習の導入を遅らせる結果になります。このことが、日本全体の義務教育で、世界、特に先進諸国との競争で、遅れを生じさせる原因になります。米国社会のような個別対応に関する融通は、日本社会では、効かないのです。しかし、一部の裕福な家庭の子供たちは、親がその機器を買い、子供たちに与えることができます。その結果、個人的に有利な子供と、不利な子供が生まれてしまいます。今の日本には、そのような意味で、不平等問題があるのです。

教育関係の予算が増加すると、教員の数を増加させることができます。教員の数が増えれば、一斉授業の問題点の一つである、「おちこぼれ」問題を改善できる可能性が出てきます。それは、学習進度別クラス編成が可能になるからです。それぞれの児童・生徒に最も適した学習進度のクラスを選び、そのクラスに配属することで、授業の内容を理解できない児童・生徒の数は、理論上は半分に減ります。つまり、授業の内容を理解できないために、不登校になる児童・生徒の数も、半分に減らせるでしょう。そのために必要になるのは、教員数の増員と、教室の追加建設費だけです。少子化の進行で、教員には余剰人員が出て、教室にも余剰が発生するので、国語や算数・数学だけでも、学習進度別クラス編成にすれば、大きな改善になるはずです。日本全体を見ると、今の日本社会では、ある程度以上の経済水準にある家庭の児童・生徒が、学習塾に通学しています。その費用を学校教育全体の改善に投入すれば、学習進度別クラス編成の実現は十分可能になるでしょう。教員に対する負担も、軽減されます。国家の負担は増加しますが、現状の負担が、他の先進諸国に比較して非常に軽いことを考慮すると、妥当な負担と言えるのではないでょうか。

長期的視野に立つべき教育制度改革と、短期的視野に立った義務教育から受ける個人の利益の最大化は、しはしば、相反する関係にあります。そして、そのような選択の結果が、正しいものであったかどうかが明確になるのは、教育を受けた人材が社会に出て活躍し始める、20年以上後のことになります。明治政府は、個々の国民の要請よりも、国家の意志を重視して、低い財政負担で、できる限り多くの子供たちの学力を一定以上の水準に引き上げるよう、一人の教員が多くの生徒を教えられる、一斉授業制を採用し、生徒たちが毎年、一斉に進級する制度を確立しました。これは、当時、米国社会で実施されていた義務教育の方法とは、少し違うものでした。米国社会では、進度別の教育が実施されていて、いわゆる「落第」の制度もありました。これに対して、日本社会では生徒の年齢を基準として、同年齢の子供たちが、一緒に学ぶ方式が採用されました。これによって、授業の内容が高度になると、日本社会の義務教育では、教員に負担がかかり、学習進度の遅い子供には、過剰なストレスがかかる結果になりました。

もう一つの改革は、義務教育での教科を、児童・生徒のニーズに合わせて、選択できるように、必須科目選択科目に分け、卒業のために要求する必須科目と、その科目について、要求される知識水準の基準を設定することです。これによって、義務教育修了者の知識の種類と、知識の水準については、最低基準を設定することができます。このことによって、他の先進諸国の人々との知識の格差をなくし、児童・生徒個人の学ぶ意欲を保ち、個人の興味の対象となっている分野を重点的に学ぶことも可能になるでしょう。この場合、小学校の教育でも、教員は、担当科目を限定した採用にすべきでしょう。そして、小学校から、進路指導や学習指導のために、カウンセラーを各学校に配置することが重要です。科目の選択や、受講クラスの希望・選択を考えると、専門的なカウンセラーの導入が必要だと思われます。実際、米国の小学校には、カウンセラーが配置されている学校があります。カウンセラー人材の育成には、専門教育が必要になりますが、教育学部の中に、そのような科目を教授する講義を準備し、単位を授与する方式で、対応はできるでしょう。

ところで、「選択科目制」を導入した場合、児童や生徒が選択したい科目には、地域差が発生することが考えられます。例えば、「情報系」の科目を、「選択科目」に設定すると、人口が集中する都市部の学校では、子供たちの親の中に、実際に情報に関係する仕事に従事する人や、その仕事について知識のある人がいることもあり、履修希望者が多くなることが考えられます。しかし、そうでない地域では、親たちにも、子供たちにも、情報系の仕事に関する知識がないため、希望者がほとんどいない例が出るかもしれません。つまり、選択科目の選択には、その地域社会にその科目が関係する仕事がありそうかどうかに関係します。ある科目を選択する児童や生徒がほとんどいない地域では、そのような科目を担当する教員を採用する必要性は薄れ、授業を実施する経済合理性はなくなります。このことは、地域の将来像や地域開発計画と、地域の義務教育の内容についての設計が、強く関係することを意味します。これまで、地域の教育行政に対する認識が薄かった日本の社会では、そのような自治行政機能を、地方公共団体が正しく担ってゆけるかどうかは、明確ではありませんでした。

米国のような個人の選択を重視し、その結果についての責任を、選択を行った人々の問題と考える社会では、地域社会の将来や、子供たちの将来の生活を左右する選択も、現在の地域社会に住む人々の選択に任せるのが、本来の民主主義の姿であるとする思想です。そのような社会においては、地域社会全体による自治教育行政は、受容できるものでしょう。しかし、これまでの日本社会では、義務教育の内容やあり方について、人々が自らの責任で重要な選択をしたことはありません。全ての選択は、基本的に国家の行政主体である現在の文部科学省が提出した案を、国会の決議で決めてきました。文部科学省の提案に賛成できない点があれば、国会議員の議論に対する要望としてのみ、国民が意見を出すだけでした。「ゆとり教育」が実質的に取りやめになった時も、「ゆとり教育」の中止が国民の選択にかけられたことはなく、教育内容の変更として、文部科学省からの提案に基づいた国会の議論を通し、修正が行われました。そのような、文部科学省が主導する義務教育の内容に関する選択を、国民が地方公共団体の支援に基づいて、自らの手で、本当に行うことができるかどうかは、分かりません。しかし、そのような国民の意志による選択が、義務教育についても、不可欠になっているのが、現代社会なのです。

日本社会の義務教育現場では、新しい教育方法の実践も試みられています。それは、文部科学省が新しい教育法として推進している「アクティブ・ラーニング」の一種です。この新しい教授法を実験的に導入しているのは、佐賀県にある公立中学校で、方法は、「学びあい」と呼ばれています。この方法も、一斉授業法ではなく、児童や生徒たちが、自ら学びの目標を設定し、自分たちでグループを作り、自ら学ぶ作業を分担する方法です。その意味で、複数の児童・生徒が自主的に、協働で学ぶ、アクティブ・ラーニングの形態になっています。この「学び合い」方式の学習も、児童・生徒の「学び」を指導する教員に対する負荷は、従来型の一斉授業方式と比較すると、学ぶ児童・生徒の学習進度が遅くなればなるほど、一般的に重くなるでしょう。その意味では、教員数を増やすことも必要になるでしょう。

(つづく)