教育、学び、そして学校


個人の目的と国家の制度の矛盾

公開: 2024年4月14日

更新: 2024年8月23日

あらまし

教育、特に義務的な教育においては、「個人の学びの目的」と、教育機関を作り、それを運営する側の「義務教育提供の意図」との間には、しばしば矛盾が生まれます。現代社会においては、個人の視点から言えば、学びの目的は、より「高度な知識を獲得」するための土台を準備するために、基礎的な知識を習得することです。この「基礎的な知識を習得する」と言う意味においては、個人の目的も、国家の意図も、本来は違わないはずです。しかし、現実の社会では、個人間の競争が激しくなっているため、個人の視点からは、他の人々よりも有利になるため、「より高い知識を得る」ことが重要になり、相対的な「知識の量や質」が問題になります。競争に勝つためには、他人よりも少しでも、多い量の知識、良い質の知識を得ておく方が有利だからです。しかし、教育機関を運営する国の視点から言えば、教育の目的は、個人間の「相対的な競争」ではなく、国民全体の知識の「絶対的な水準」が問題になります。

特定の小学生が、1万人の小学生の中で、最も知識を持っている子供かどうかは、国家の目から見れば、問題ではありません。むしろ、その子が「知っているべきこと」を、「知っているか、知っていないか」の方が問題です。問題の知識を、1万人の子供たち全員が知っていれば、国家としては、教育の意図は達せられていると言えます。1万人の子供たちの半分が、その知識を知っていれば、国家の教育の意図は、半分達せられたことになるでしょう。逆に、それを、そのたった1人の子供しか知らないとすれば、国家の教育の意図は、全く達せられていません。OECDによる、PISAの試験で、各国における妥当な解答の率(正答率)が問題にされるのには、そのような背景があります。東アジアの国々の子供たちが、決まり切った問題に対して、高い正答率を示すのは、そのような問題に対して、東アジアの子供たちは、間違えずに解答するように、「よく訓練されている」ことを示しています。しかし、算数の問題で、文章で書かれた問題に対して、妥当な解答を書ける子供たちが少なくなることは、東アジアの国々の教育では、パターンが決まっている問題には正しい答えを出せても、そうでない問題について、自分で考え、答えを導き出すための訓練が不足していることを意味しています。

特定の社会で生きることだけを考えるのであれば、その社会の中で、自分が何番目の正解率なのかを知ることは、非常に重要です。それは、日本のような教育制度を取っている社会では、その子供が、これからの競争に勝ち残れる確率を意味するからです。しかし、米国社会のように、知識の水準を絶対的な基準で評価する社会では、その「基準に達しているかいないか」だけが問題で、正答率の相対的な順序は、あまり問題にはなりません。米国社会での大学の入学選抜の例で言えば、学業の成績は、一定水準以上であれば、むしろ志望動機や、それまでの社会活動などの方が重要になります。日本社会の場合には、大学の入学選抜では、公平性や客観性が問題になるので、学業の成果を評価する試験の成績で、上位何番目までを合格にするのかだけが、問題になります。合計得点が、1点でも違えば、合格になったり、不合格になったりします。日本のように相対評価で合格、不合格を決める社会では、どうしても受験競争が熾烈(しれつ)になります。

小中学校へ通う子供を持つ親の中には、子供の学業成績や、学習塾での学びや成績評価には、重大な関心を持っていても、その子供の学校における行動や振る舞いの内容には、全く興味を示さない人々もいます。そのような親をもつ子供の中に、学校のクラスで、特定の子供に対しての「いじめ」に主導的な役割を担っている子供がいる例があるとも報告されています。そのような子供の「親の目」から見れば、子供の学業成績さえ良ければ、その子供は「良い子」であり、「いじめ」の主導者であるわけはないと考えがちです。同じことは、教員にも言えるかもしれません。成績の良い子が、「いじめ」をするはずはない、と言う先入観があるかも知れません。特に、「いじめ」問題のあるなしが、教員自身の個人評価に影響する可能性がある場合には、教室内で起こっている「いじめ」そのものが、「ないこと」とされる例も、存在するでしょう。それは、学校教育の制度を運営する行政機関の視点とは、対立するものになります。

個人の意見が尊重される現代の日本社会では、教育行政の実施管理に責任を持つ文部科学省と、その実施管理の下で運営されている学校教育の対象である生徒を学校へ送り込んでいる子供たちの親(保護者達)との間には、国家の経済発展を優先して考える政府と、教育によって個人的な利益を受ける親たちとでは、互いに相反する視点があります。国家の教育の目的に重点を置けば、個々人の学力の向上よりも、「いじめ問題」の解決や、「不登校問題」の解決が優先されるべきです。{いじめ」や「不登校」問題の解決を優先すれば、一部の人々の子供たちの学力向上を、短期的には妨(さまた)げる可能性があります。この点については、子供たちの親は、教育熱心であればあるほど、子供たちの学力向上を重視する立場に立つ方が、自分たちの有利さを維持して、個人的には望ましい結果を期待できるため、現代の日本社会は、全体として、これまでの教育方法・制度を踏襲(とうしゅう)する考えに、傾いてゆきます。

個人の目的と国家の制度の矛盾

教育、特に義務的な教育について、「個人の学びの目的」と、教育機関を作り、運営する側の「国家による義務教育提供の意図」との間には、矛盾があります。現代社会においては、個人の視点から言えば、学びの目的は、より「高度な知識を獲得」するための土台を準備するために、基礎的な知識を習得することです。この「基礎的な知識を習得する」と言う意味においては、個人の目的も、国家の意図も、本来は違わないはずです。しかし、現実の社会では、個人間の競争が激しくなっているため、個人の視点からは、他の人々よりも有利になるため、「より高い知識を得る」ことが重要になり、相対的な「知識の量や質」が問題になります。競争に勝つためには、他人よりも少しでも、多い量の知識、高い質の知識を得ておく方が得だからです。しかし、教育機関を運営する国の視点から言えば、教育の目的は、個人間の「相対的な競争」ではなく、国民全体の知識の「標準的な水準が問題になります。

特定の子供が、1万人の小学生の中で、1番の知識を持っている子供かどうかは、国家の目から見れば、問題ではありません。むしろ、全ての子供が、「知っているべきこと」を、「知っているか、知っていないか」が問題です。1万人の子供たち全員が知っていれば、国家としては、教育の意図は達せられていると言えます。1万人の子供たちの半分が、その知識を知っていれば、国家の教育の意図は、半分達せられたことになるでしょう。逆に、1人の子供しか知らないとすれば、国家の教育の意図は、全く達せられていません。OECDによる、PISAの試験で、妥当な解答の率が問題にされるのには、そのような背景があります。東アジアの国々の子供たちが、決まり切った問題に対して、高い正答率を示すのは、そのような問題に対して、東アジアの子供たちは、間違えずに解答できることを示しています。しかし、算数の問題で、文章で書かれた問題に対して、妥当な解答を書ける子供たちが少なくなることは、東アジアの国々の教育では、パターンが決まっている問題には正しい答えを出せても、そうでない問題について、自分で考え、答えを導き出すための訓練が不足していることを意味しています。

特定の社会で生きることだけを考えるのであれば、その社会の中で、自分が何番目の正答率なのかを知ることは、非常に重要です。それは、日本のような教育制度を取っている社会では、その子供が、これからの競争に勝ち残れる確率を意味するからです。しかし、米国社会のように、知識の水準を絶対的な基準で評価する社会では、その「基準に達しているかいないか」だけが問題で、相対的な順序は、あまり問題ではありません。大学の入学選抜の例で言えば、学業の成績は、一定水準以上であれば、むしろ志望動機や、それまでの社会活動などの方が重要になります。日本社会の場合には、大学の入学選抜では、公平性や客観性が問題になるので、学業の成果を評価する試験の成績で、上位何番目までを合格にするのかが、問題になります。合計得点が、1点でも違えば、合格になったり、不合格になったりします。日本のように相対評価で合格、不合格を決める社会では、どうしても個人間の競争が熾烈(しれつ)になります。

そのような競争が熾烈な社会では、子供たちの親は、少しでも自分の子供たちに、競争で有利になるよう、教育機関の現場に圧力をかけようとします。現場の教員は、そのような意図で教員に接してくる子供たちの親と、子供たちの学業成績や、授業内容についての議論を行うため、学校内での相対的な学習の達成度、地域内での学校間格差、などについても注意を払って、授業計画を立案し、授業の実施を行わなければならないのです。しかし、教育制度の運用に責任を持つ、教育委員会や、国の行政機関である文部科学省では、個々の学校の、個々の教員の授業計画や授業の実施方法よりも、地域全体での不登校の発生率や、いじめの発生件数の変化の方が、問題になります。特に、2010年以降の日本社会では、不登校やいじめの発生などが、「なぜ、増加しているのか」が明確になっていないため、「親の問題」、「教員の質の問題」、「子供たちの社会環境の問題」など、最も重要な問題を把握して、適切な対応策を講じる必要性が差し迫った課題となっています。

小中学校へ通う子供を持つ親の中には、子供の学業成績や、学習塾での学びや成績評価には、重大な関心を持っていても、その子供の学校での活動や振る舞いには、ほとんど興味を示さない人々もいます。そのような親をもつ子供の中には、学校のクラスで、特定の子供に対しての「いじめ」に主導的な役割を担っている子供がいる例があるとも報告されています。そのような子供も、「親の目」から見れば、子供の学業成績が良ければ、その子供は「良い子」であり、「いじめ」の主導者であるわけはないと考えがちです。同じことは、教員にも言えるかもしれません。成績の良い子が、「いじめ」をするはずはない、と言う先入観があるかも知れません。特に、「いじめ」問題のあるなしが、教員自身の個人評価に影響する可能性がある場合には、教室内で起こっている「いじめ」そのものが、「ないこと」とされる例も、存在するでしょう。それは、学校教育の制度を運営する行政機関の視点とは、対立するものになります。

個人の意見が尊重される現代の日本社会では、教育行政の実施管理に責任を持つ文部科学省と、その実施管理の下で運営されている学校教育の対象である生徒を学校へ送り込んでいる子供たちの親たち(保護者達)の間には、国家の経済発展を念頭に考える政府と、教育によって個人的な利益を受ける親たちとでは、その利益を最大化しようとする親たちとの間には、互いに相反する問題があります。国家の教育の目的に重点を置けば、個々人の学力の向上よりも、「いじめ問題」の解決や、「不登校問題」の解決が優先されるべきです。これは、一部の人々の子供たちの学力向上を、短期的には妨げる可能性があります。この点については、子供たちの親は、教育熱心であればあるほど、子供たちの学力向上を重視する立場に立つ方が、自分たちの有利さを維持して、個人的には望ましい結果を期待できるため、現代の日本社会の教育は、これまでの教育方法・制度を踏襲(とうしゅう)する考えに、傾いてゆきます。

一般論として、個人よりも国家の問題を優先すれば、一部の国民にとっては、不利益を生じます。かつて、日本では、文部省が日本の将来を担う人材の育成を優先し、他の先進国の人々と競争できる人材を育成するため、「ゆとり教育」を推進する方針が採用されました。そのことは、日本全体の発展を考えれば、正しいことでした。しかし、そのような方針は、日本国内の教育制度を大きく変え、従来の制度で有利な立場にあった階層の人々にとっては、子供たちの将来を考えると、不利になる可能性がありました。このことから、それまでの制度で有利であった人々から、強い反対の声が出ました。国民の支援によって選ばれる国会議員たちは、有権者である親たちの声に押され、成績が下がると言う理由から、「ゆとり教育」を中止し、従来型の「詰め込み教育」に戻る選択をしました。この決定によって、日本の教育制度は、北ヨーロッパ諸国などの先進諸国と比較すると、20年以上、遅れる結果になりました。

長期的視野に立つべき教育制度改革と、短期的視野に立っている個人の教育から受ける利益の最大化は、しはしば、相反する関係にあります。そして、そのような選択の結果が、正しいものであったかどうかが明確になるのは、教育を受けた人材が社会に出て活躍し始める、20年以上後のことになります。明治政府は、個々の国民の要請よりも、国家の意志を重視して、低い財政負担で、できる限り多くの子供たちの学力を一定以上の水準に引き上げるよう、一人の教員が多くの生徒を教えられる、一斉授業制を採用し、生徒たちが毎年、一斉に進級する制度を確立しました。これは、当時、米国社会で実施されていた義務教育の方法とは、少し違うものでした。米国社会では、進度別の教育が実施されていて、いわゆる「落第」の制度もありました。これに対して、日本社会では生徒の年齢を基準として、同年齢の子供たちが、一緒に学ぶ方式が採用されました。これによって、授業の内容が高度になると、日本社会の義務教育では、教員に負担がかかり、学習進度の遅い子供には、過剰なストレスがかかる結果になりました。

第2次世界大戦後の後の、学校教育法の枠組みでも、明治以来の生徒の年齢に対応した授業実施を原則とした制度は維持され、個々の生徒の理解度や、学習進度に基づいた授業の実施は行われませんでした。このことによって、個人による義務教育への要請が強くなった、戦後の社会でも、学習進度の個人間格差が拡大したにもかかわらず、一人の教員が、30名から50名の、理解度の異なる生徒を対象にした一斉授業を基本とした教育法が続けられました。しかし、子供たちの親からの要請は、自分の子供の学力や学習進度に適した授業内容を要求するため、教員は、親たちの個々の要求と、国家の学習指導要領の規定との間で、均衡(バランス)をとらなければならない状況に追い込まれています。現在の日本社会における政治状況では、政府も教員も、子供たちの親の言い分を無視できない状況です。

現在の日本社会の義務教育で、生徒の進度別に授業を編成すれば、教員の負担も、生徒たちのストレスも、減少するでしょう。しかし、授業クラスの数は、増加します。それは、教員数の増加にもなります。2023年の時点でも、公立学校の教員数は、充足していないとの報告があります。そのため、特別支援学級担当の教員でさえ、不足している状態だそうです。教員数を増やし、一人の教員が授業で担当する生徒の数を大幅に減らせなければ、進度別のクラス編成を実施することは困難です。政府の義務教育費負担を大幅に増加できなければ、そのような教育の導入は不可能です。もう一つの方法は、米国社会のように、地方への分権を進めて、地方別の教育税を導入し、教員確保などの予算を地方税で負担すれば、高い教育税を負担できる地域では、進度別教育に必要な教員数の増加を実施できるでしょう。しかし、国内のどこでも同じ水準の義務教育の保証は、できなくなります。

現代の先進国における教育の第一義的な目的は、その国の次の世代を担う人材を育成することです。それは、将来、その国で生き、働く、全ての国民を対象としていて、ある特定の個人を対象としているわけではありません。このことは、個人の知識水準、そしてスキルの水準を向上させ、そのことを通じて、社会全体の人々の知識の水準、スキルの水準を向上させなければなりません。このことは、単に一つ一つの知識が何を意味し、どのようなものであり、何に役立つかを理解させるだけではなく、その知識を使って、社会に存在している問題を、実際に解決できるように訓練しなければなりません。「知識を知っていること」と「知識を応用して問題を解決できること」は、同じではありません。知っている人が多くても、できる人がいなければ、その国の経済も、政治も、文化も発展しないからです。明治以来の日本社会での教育では、「知っている」ことだけに重点が置かれていました。しかし、これからの世界では、「知っていること」と同じくらい、「できること」が重要になります。その意味で、日本の社会では、新しい教育をどのように実践するのかを、改めて考えなければなりません。

(つづく)