公開: 2024年4月11日
更新: 2024年8月23日
学ぶ能力は、全ての生物に備わっている能力です。単細胞生物でも、生息している環境について、過去の経験から学ぶ能力を持っているそうです。行動科学の分野では、ネズミをパイプを張り巡らした檻(おり)に閉じ込め、「パイプ迷路」のある場所に二又(ふたまた)に分かれた道をしつらえ、右へ進むとその先に電気ショックを与える場所があり、逆に左に進むと、その先にエサの置かれた場所を作っておきます。その檻の中にマウスを放し、観察していると、どのマウスも、最初は餌にありついたり、失敗して電気ショッックを受けたりします。しかし、何回か、それを経験すると、マウスは、この迷路を学習して、電気ショッックを受けないようになります。これが学習です。
ネズミのように高等な動物になると、自分の過去の動作とその結果を記憶する能力が高いので、高い学習能力を持っています。ただ、それほど高等な記憶能力を持っていない動物でも、ゆっくりと学び、遺伝子の中に学習の結果を刻み込む例があります。過去の経験から学んだ結果を、遺伝子の変化の中に埋めこませ、生まれながらに、先祖が学んだ経験を、自分では意識することなく、自分の行動に反映できる生物も少なくありません。植物や昆虫には、そのような遺伝的に組み込まれた学習結果に従って行動する生物が多いようです。人間が近づくと、すぐに逃げる昆虫には、そのような情報が遺伝的に組み込まれているのです。これらの例から分かるように、学習は、生物に特有な、自分たちができるたけ多くの子孫を残すための能力です。
今から6万年位前、現在のインドネシアにある火山が大噴火し、地上に大量の火山灰が降り積もり、太陽の光が地上に届きにくくなり、現生人類(ホモサピエンス)は絶滅の危機に陥(おちい)りました。そのような環境で、人類は互いに助け合って生きることを学び、争いあうことをしなくなりました。このとき、人類の脳の構造も大きく変化し、その結果、頭蓋骨の形も変化しました。それまでの「チンパンジーのような」形の頭蓋骨は、目の上の「でっぱり」が小さくなりました。これは、戦うためのホルモンてあるテストステロンの分泌が減ったためだと言われています。そして、そのことは互いに協力するための言葉の役割を大きくし、人間の言語能力を大きく拡張しました。その後、現生人類の一部がアフリカ大陸を離れ、現在の中近東から、ヨーロッパやアジアへ向けて移動し、一部は、先にヨーロッパ大陸に進出していたネアンデルタール人と混血したようです。
ネアンデルタール人は、現生人類(ホモサピエンス)と違って、1つ1つの集団の規模が小さく、集団内での意思疎通がし易かったため、言語能力は現生人類ほどには発達しなかったようです。それに比べて、1つ1つの集団の規模を大きくしていった現生人類は、見知らぬ人々との意思疎通が必要だったため、言語による意思疎通の必要性が増し、言語そのものも拡張されました。そして、現生人類では、集団の間でのコミュニケーションも密になり、ある集団で発明された道具が、他の集団にも短い時間で伝わるようになりました。このため現生人類は、ネアンデルタール人に比較すると、大脳の大きさが小さいにもかかわらず、石器などの道具を次々と改良し、獲物を獲る効率を向上させて、短時間のうちに人口を増加させ、現生人類の人口が、圧倒的多数となり、約3万年前には、ネアンデルタール人を絶滅に追い込んだと考えられています。
新しい方法を学び、新しいものを作ることができるようになるためには、その技術を持っている人の下で、その方法を学び、経験を積んで、先人が確立した方法を繰り返すことができるようにならなければなりません。さらに、より良い方法を見出し、それを洗練させて、さらに新しい方法として確立することが重要になります。現代の教育制度は、そのような確立されている技術を学び、さらに、その確立された技術を改良して、新しい技術を確立するための手法を学ぶことに重点が置かれています。この技術の伝承と、新技術の開発を学ぶための制度(現代の言葉で言えば、「工学」です)が工学教育の原型です。教育社会学の分野では、教育の目的には、社会的な目的と、個人的な目的があるとしています。社会的な目的については、国民の知的水準を向上させることです。個人的な目的としては、個人の生活水準を向上し、個人の生活の質を良くするために必要な、知識や倫理観に対する理解を深めることです。
学ぶ能力は、全ての生物に備わっている能力です。多細胞動物ではもちろんのこと、単細胞動物にも、生息している環境について、過去の経験から学ぶ能力を持っているそうです。行動科学の分野では、ネズミをパイプを張り巡らした檻(おり)に閉じ込め、パイプ迷路のある場所に、二又に分かれた道をしつらえ、右へ進むとその先に電気ショックを与える場所があり、逆に左に進むと、その先にエサの置かれた場所を作っておきます。その檻の中にマウスを放し、観察していると、どのマウスも、餌にありついたり、失敗して電気ショッックを受けたりします。しかし、何回か、それを経験すると、マウスは、この迷路を学習して、電気ショッックは、受けないようになります。これが学習です。
ネズミのように高等な動物になると、過去の経験を記憶する能力が高いので、高い学習能力を持っています。ただ、それほど高等な能力を持っていない動物でも、ゆっくりと学び、遺伝子の中に学習の結果を刻み込む例もあります。過去の経験から学んだ結果を、遺伝子の変化の中に記憶させ、生まれながらに、先祖が学んだ結果を、意識することなく、自分の行動に反映できる生物も少なくありません。植物や昆虫には、そのような遺伝的に組み込まれた学習結果に従って生きる生物が多いようです。人間が近づくと、すぐに逃げる昆虫には、そのような情報が遺伝的に組み込まれているのです。これらの例から分かるように、学習とは、生物に特有な、自分たちができるたけ多くの子孫を残すための能力です。
人間のように高等な動物になると、より高度な学習を可能にするため、記憶するための大きな大脳を持つようになります。人間の進化を振り返ると、チンパンジーから進化したばかりの人類の祖先の大脳は、チンパンジーと同じぐらいだったことが分かっています。つまり、学習能力を比べると、チンパンジーと、ほとんど変わらなかったと考えられます。しかし、人間が直立歩行を始め、移動に手を使わなくなると、手の指を使う能力も発達し、少しずつ大脳が大きくなりました。同時に、記憶能力も発達したと考えられます。また、立ち上がったことで、喉の構造にも変化が生じ、様々な音を発する能力が増し、仲間との意思疎通のために音(声)を使うようになりました。このことは、人間が言葉を使うようになるきっかけとなり、言葉を話すために、豊かな記憶能力を使うようになりました。そして、その言葉を話す能力を発展させるために、大脳は、ますます発達しました。
今から6万年位前、現在のインドネシアにある火山が大噴火し、地上に大量の火山灰が降り積もり、太陽の光が地上に届かなくなって、人類は絶滅の危機に陥(おちい)りました。そのような環境で、人類は互いに助け合って生きることを学び、争いあうことをしなくなりました。このとき、人類の脳の構造も変化し、その結果、頭蓋骨の形も変化しました。チンパンジーの頭蓋骨は、目の上に大きな「でっぱり」がありますが、人類では、その出っ張りが小さくなりました。これは、戦うためのホルモンてあるテストステロンの分泌が減ったためだと言われています。そして、そのことは互いに協力するための言葉の役割を大きくし、人間の言語能力を大きく拡大させました。その後、人類はアフリカ大陸を離れ、現在の中近東から、ヨーロッパやアジアへ向けて移動し、一部はネアンデルタール人と混血したようです。
ネアンデルタール人は、現生人類(ホモサピエンス)と違って、1つの集団の規模が小さく、集団内での意思疎通がし易かったため、言語能力は現生人類ほど発達しなかったようです。それに比べて、1つ1つの集団の規模を大きくしていった人類は、見知らぬ人々との意思疎通が必要になったため、言語による意思疎通の必要性が増し、言語そのものも拡張されました。そして、人類の集団の間でのコミュニケーションも密になり、ある集団で発明された道具が、他の集団にも短い時間で伝わるようになりました。このため人類は、ネアンデルタール人に比較すると、石器などの道具をどんどん改良し、獲物を獲る効率を向上させて、人口を短時間のうちに大幅に増加させ、現生人類の数が、圧倒的多数となり、約3万年前には、ネアンデルタール人を絶滅に追い込みました。
この間、現生人類は、大きな集団による狩りの方法を進化させ、マンモスのような大型の動物も狩りの対象にし、そのような大型動物から得られる肉を食料にして、人口を増加させられるようになりました。そして、男性は、食物を得るための「狩り」に時間をかけるようになり、子供を産む女性は、育児に時間をかけるように変化しました。性別による「分業」の始まりです。この性別分業によって、女性が一生涯に産む子供の数が増え、人類の人口を増やしやすくしました。そのような進化をしなかった、ネアンデルタール人は、人類との生存競争に敗れ、徐々に、ヨーロッパ大陸の片隅に追いやられて行き、絶滅しました。
この人類の歴史からも分かるように、生物の種として、物事を学ぶ能力は、種の保存や進化に大きな影響を与えます。さらに時代が下ると、人間は高度なモノづくりを始めました。土器や青銅器、そして鉄器などです。簡単な土器でも、材料となる土の性質、土器を焼くための木や炭の特徴、土を焼くための窯の構造など、様々な工夫が必要になります。中国大陸や地中海沿岸地域では、焼いた土器に色付けをするための方法が発見され、水が漏れにくく、きれいに彩色された土器が作られるようになりました。そして、中国では、磁器と呼ばれる薄くて軽い「焼きもの」も作られるようになりました。人類は、このようなモノづくりの方法を、少しずつ改良し続け、発見した新しい方法を同じ集団の仲間の人々に引き継ぎ、新しい方法として確立する制度も作り出しました。
このような新しい方法を学び、新しいものを作ることができるようになるためには、その技術を持っている人の下で、その方法を学び、経験を積んで、先人が確立した方法を繰り返すことができるようにならなければなりません。さらに、より良い方法を見出し、それを洗練させて、さらに新しい方法として確立することが重要になります。現代の教育制度は、そのように確立されている技術を学び、さらに、その確立された技術を改良して、新しい技術を確立するための手法を学ぶことに重点が置かれています。この技術の伝承と、新技術の開発を学ぶための制度(現代の言葉で言えば、「工学」です)が工学教育の原型です。
教育社会学の分野では、教育の目的には、社会的な目的と、個人的な目的があるとしています。社会的な目的については、すでに議論してきたように、社会における経済活動を活性化するために、国民の知的水準を向上させることです。個人的な目的としては、個人の生活水準を向上し、個人の生活の質を良くするために必要な、知識や倫理観に対する理解を深めることです。そのために、「学ぶ機会」や「効率よく学ぶための」制度を社会全体に整備し、誰もが望む知識や高い倫理観を学ぶことができるようにしなければなりません。特に、20世紀末から、世界の各国では、社会的な目的の達成よりも、個人の目的を達成することの方が、重要視されるように変化しています。
技術の進歩が極端にまで進んだ現代の世界では、新しい技術の開発は、時として、予想ができないような弊害を、人々の生活にもたらすことがあります。例えば、原子力の技術開発です。原子力は、当初、新しい発電の技術として研究が進められていましたが、1930年代の中ごろから、爆発力のある兵器への利用が考え始められ、発電に用いられた核燃料の残渣(ざんさ)から、プルトニウムを取り出せることが分かると、そのプルトニウムを利用して原子爆弾を製造する方法が開発され、第2次世界大戦では、長崎に投下された原子爆弾に、その技術が利用されました。これは、広島型のウラン爆弾と異なり、高いエネルギー爆発を可能にする爆弾を、大量に生産することができるため、強力な兵器を大量に製造できる技術になります。オッペンハイマー博士たちのグループが、1945年の7月、米国のロスアラモスで実験的に成功した爆弾です。
このプルトニウム型原子爆弾の例に端的に示されるように、技術は、良い目的にも利用できますが、同時に、倫理的には悪い目的にも利用できます。プルトニウム型原子爆弾の開発に関係したロスアラモスの科学者たちの一部には、完成した爆弾を、実際の戦争で利用することには、「倫理的な問題がある」として、研究グループを去った科学者たちもいたと記録されています。また、プルトニウム型原爆を起爆剤に利用して、核融合を起こし、さらに強力な「水爆」が作れると、提案した科学者もいたそうです。人間が考え出せる道具が、ここまで進歩すると、その道具の開発に関わる専門家は、その結果として、「何が起きるのか」を予想し、その開発を中止さえする勇気を持つことも、求められるようになっています。これは、「倫理の問題」です。
最近では、クローン生物の話題で知られている「遺伝子編集」の技術や、チャットGPTで知られている「生成AI」などの技術なども、難しい倫理に関わる問題を含んでいます。それは、全ての技術の進歩が、単に人類全体の生活の向上に役立つとは言えなくなりつつあるからです。このような時代、人類には、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスが提起した、「徳」を実践する心がけを、全ての人々が十分に理解して行動すること、が重要になります。つまり、「倫理観」を学び、実践することが求められています。その意味では、技術に関する知識を学ぶことと同時に、正しい「倫理観」を学ぶことも、全ての人間に求められているのです。ただ、現在の学校教育では、そのような意味での学びは、個々の人々による、個人の学びの努力に頼っている点に、問題がありれます。
1970年代の米国社会では、大学での専門教育の成績と、実社会での業績との関係が分析され、実社会の業務で高い評価を受けている人々と、大学時代の成績や、資格認定試験の成績との間に、強い相関関係が見られないことが分かり、問題になりました。この研究成果から、米国政府の一つの機関では、新職員採用の選定において、候補者のどんな特性に注目すべきかを検討し始めました。その研究の結果、研究者たちは、実務における業績に最も関係しているとする特性を見出し、「コンピテンシー」と名づけました。それは、高等教育から学べる知識ではなく、職業倫理観のような、人生の早い段階で学び、身に着けるべき「行動特性」でした。つまり、周囲から尊敬される人材になるためには、幼児の時からの教育で身に着く、倫理的な行動を選択する規範です。