みずほ銀行オンライン・システム障害について

公開: 2022年7月22日

更新: 2022年7月23日

あらまし

ここでは、我々が専門家として、日本におけるソフトウェア開発力の向上を目指すために必要な、以下の4つの改革を提言する。

  • ソフトウェア開発・保守の原則を踏まえてプロジェクトを実践する
  • ソフトウェア人材を育成し、専門家人材を活用できる社会を作る
  • 日本社会の雇用制度を変革し、そのために必要となる教育制度改革を行う
  • 次世代を担う人々に専門家の社会的使命と生き方を学ばせる

提言: 実務家の視点から

ここで、我々は日本におけるソフトウェア開発力の向上を目指すために必要な4つの改革を提言する。

  • ソフトウェア開発・保守の原則を踏まえてプロジェクトを実践する
  • ソフトウェア人材を育成し、専門家人材を活用できる社会を作る
  • 日本社会の雇用制度を変革し、そのために必要となる教育制度改革を行う
  • 次世代を担う人々に専門家の社会的使命と生き方を学ばせる
以下に、これらのそれぞれについて説明する。

1) ソフトウェア開発・保守の原則を踏まえる

ソフトウェア工学では、ソフトウェア開発や保守の過去の経験から、人類が学んだ理論的・経験的な知識を集約し、ソフトウェア開発・保守の現場で守らなければならない原則を整理している。それらの経験の中でも、特にソフトウェア工学が重点を置いている経験は、世界の巨大コンピュータ・メーカや巨大プロジェクトの経験から得られ、学んだ実践的な知識である。我々が、先人たちが、血のにじむような努力によって学び取ったそれらの経験知を顧みずに、自ら考えた「良いやり方」を試すことは、失敗を知らずして失敗のリスクを冒すことを怖れない、専門家としては恥ずべき行為である。その意味で、社会でソフトウェア開発や保守を実践する人々は、ソフトウェア工学の基礎を学ばなければならない。

そのような人類史の経験として、誰もが学ばなければならない経験に、米国IBM社におけるOS/360の開発プロジェクトが有名である。コンピュータ上で稼働し、人間のように情報を加工し、判断するやり方を定めたソフトウェアは、人間の代わりを、人間よりも速く、行うことができる。情報の加工が単純であれば、加工のやり方に間違いが入ることは少なく、間違いがあっても、その発見は容易である。しかし、その加工の仕方が複雑になると、人間が指定する加工の仕方に誤りが混入する可能性は高くなり、混入した誤りを人間が発見することは難しくなる。このことは、作成されたソフトウェアが不完全なものであっても、その不完全さを人間が認識することが容易でなく、ソフトウェアを利用する人間が騙される可能性があることを示している。

特に、その動き(情報の加工や判断の仕方)を、「もの」とは違って、簡単に変えることができるソフトウェアの場合、直面している問題を深く考えずに、表面的な思考だけで、安易に情報の加工の仕方や判断の仕方を修正すると、もともとは正しく行われていた 情報の加工や判断が、正しく行われなくなるなどの問題が生じる。このような問題の発生を防ぐために、米国の技術者達は、よく、「最初からよく考えて、最初に正しいと考えたやり方でやれ」と言う。つまり、最初から「しっかりと仕事をしろ」と言う原則である。ソフトウェアでは、あまり深く考えずに、「取りあえずやってみる」、「うまくいったらそれで良い」とする結果優先の考え方が、しばしば応用される。それが、「速く仕事を終わらせる」コツだからである。しかし、そのような仕事の仕方が、のちのち問題を起こすのである。

また、複数の技術者が協力して仕事をする時、複数の組織が協力して仕事をする時、特定の問題和解決する方法として、複数の解決策が提案され、その中で、最も実現が容易な案が選択されることが少なくない。それは、一部の技術者の目から見れば、「安易な妥協策」であるが、最も簡単に問題を解決する道であることが多い。そのようにして合意された選択が、長期的に考えると、「最悪の選択」であることが判明することも多い。技術者としては、安易な妥協はせず、本当にその選択が妥当な選択であることを、しっかりと確認したうえで、その選択に賛同すべきである。みずほ銀行のシステムでは、最初の統合の時点で、時間の制約から、ブリッジ・コンピュータを使って、既存の各行のシステムを結合しようとした解決策の選択が、まさにそのような安易な選択の例である。


2) 情報技術者人材を育成し、専門家人材を活用する

明治以後に確立された日本の高等教育では、医学系と法学系の専門家を育成する教育プログラム以外、純粋に専門家を養成することを目的としてこなかった。ただ、機械工学や電気・電子工学の分野では、高等教育で学んだことが、専門職に従事する条件とはならなかったが、専門職に従事するための有利な教育履歴とされることはあった。このことは、米国やヨーロッパ諸国とは、大きく異なる社会的な習慣となった。専門的な仕事に従事するための知識の獲得は、主として社会人となった後に、企業で提供される実務教育・訓練に依存することとなった。このことが、第2次世界大戦後の日本社会で、特に大学教育が企業内で専門的な職種に従事するための前提としない社会慣習を成立させた。これは、世界的にも珍しい慣習である。

この社会慣習は、高等教育を担っている大学において、実践的専門知識教育のためのカリキュラムを整備する意欲(インセンティブ)を減退させた。つまり、大学教育では、企業に勤務する技術者が必要とする専門基礎知識や、先進的な専門知識を学生たちに提供する必要がなく、教員に対しても、そのような教育を養成する機運は生まれなかった。このことは、他の先進諸国の大学教育で、アクレディテーション評価を受け、その認定を受けることが、大学経営にとって極めて重要になることと、対照的である。日本の大学教員の価値観では、教育プログラムの内容よりも、入学する学生の偏差値を高く維持することの方が重要になっていた。偏差値の高い学生を集め、将来の企業において、広い視野をもって、様々な仕事に従事できる、高い愛社精神をもつ人材を育成することが重視されていた。

その結果、世界的な規模での競争が激化した社会では、し烈な経済競争を戦う経営環境で、変化する技術の動向を適切に判断し、新技術を正しく実践できる人材を適切に配置し、その能力を発揮させることが難しくなっている。それは、従業員の専門知識が不足しているからである。従来の日本企業では、スペシャリストよりも、ジェネラリストが重視されてきたからであった。雇用制度も、その前提に基づいて、終身雇用と社内教育制度、配置転換制度などが導入され、従業員の従事する仕事が特定の専門分野に縛られないようにしている。これによって、失業のリスクは低くなるものの、従業員の専門性は低くなり、企業全体としては生産性を低くする。みずほ銀行でも、このことがシステムの開発や保守において、高度な専門的知識を持つ人材の不足に繋がっている。

特に、企業のIT戦略の立案と、その実施に責任を持つCIO(主幹情報担当取締役)の業務を担い、システム開発と運用の全責任をもつ人材には、情報通信技術分野の技術知識に精通した人材が不可欠となる。スペシャリストの雇用や養成を疎かにして生きた日本の組織では、一般にCIO人材が育っていない。さらにそのような人材は、業務内容にも深い理解が必要であり、業種の異なる企業の経験だけを頼りに、採用することにはリスクを伴う。また、そのような人材の採用においては、専門性の評価法が確立されていないため、他社での業務経験をどう評価するのかの定説もない。人事担当の取締役を採用することとは、大いに異なるのである。他社での成功経験は、参考にはなるものの、自社での成功を保証するものではない。経営コンサルタントの採用とは違うのである。


3) 日本社会の雇用制度を変え、そのために必要な教育制度改革を行う

長期的な視点からは、日本の社会には、明治維新以来の大きな社会制度改革が必要である。江戸時代の社会で形成された様々な社会制度や慣習を引き継いだ、明治維新から第2次世界大戦終了までに、少しずつ調整されて作り上げられた「大日本帝国」の社会制度は、世界情勢の変化によって、機能不全に陥っている。その一つの現象が、みずほ銀行のシステム障害に顕著に表れている。これは、単に同行だけの特有な現象ではなく、日本企業であれば、どの企業にも起こりうる問題である。特に、みずほ銀行のシステム障害に焦点を絞って考えれば、教育制度改革と雇用制度改革が喫緊の課題である。特に、教育制度改革は、改革に着手して、その成果が明確に表れてくるのに、20年以上の歳月を必要とする。今、改革に着手したとしても、その成果が見えるようになるのは、2040年以降の、人口減少と著しい高齢化に悩む日本社会においてである。

さらに、この教育制度改革の成否は、次の2つの要素に大きく影響される。その第一は、最初に述べた雇用制度の影響、特に企業の人材採用方式の問題である。その第二は、次世代を担う子供たちの親の意識のあり方である。企業の人材採用方式は、直接、大学における専門教育制度や教育プログラムに対して、就職率の変化と言う現象を通して、影響を与える。有望企業への就職率の高い大学ほど、高等学校からの受験生の応募が多く、優秀な学生が集まり易いからである。また、大学受験生をもつ両親の将来への展望は、子供達の大学や将来の職業の選択に、大きな影響を与える。子供達にとって、「大学で何を学ぶか」よりも、「どんな大学で学ぶか」が重要だとする昭和30年代までの固定的な考え方に基づけば、大学での専門よりも、旧国立大学へ進学することの方が、重視される。その結果、高等学校の教員も、予備校の指導員も、生徒の偏差値で進学できる大学の学部学科を選び、進めることとなる。

このような高校生に対する進路指導の結果。生徒の向き不向きと、志望大学・学部・学科の選択には、あまり相関が見られなくなる。「偏差値が高いから医学部へ進学する」のであり、「医師になりたいから医学部に進学する」のではなくなる。学生は、最初の人体解剖で衝撃を受け、専攻の変更を願出たりする例があるのは、そのためである。情報系の学部学科でも、数学的な能力の高い学生が、プログラミングの演習についてゆけず、退学を願出る例も少なくない。数学の計算とプログラミングでは、異なる脳の使い方を求められる。子供もその親達も、そして企業の採用担当者達も、本人にどのような能力があり、どのようなことを得意としているか、どのような仕事に向いているかを、簡単には見分けられない。特に、本人の興味が続かなければ、プロの専門家として生きることは難しい。米国社会とは違って、日本社会では、スポーツや芸術分野に進む人々以外、早い段階で専門を選択する習慣はない。

野球の選手になる場合でも、サッカーの選手になる場合でも、ピアニストを志望する場合でも、3歳から4歳ぐらいで、専門的な訓練を開始するのが普通である。しかし、それ以外の職種では、知識が重要となる場合でも、高校生になって、大学を選ぶようになるまで、専門性を選ぶ例はまれである。このことが、米国社会と大きく異なる。米国社会では、小学生の時から、将来、どのような仕事に就くのかの選択を迫られ、学ぶ内容もそれに応じて、個人個人で少しずつ違っている。それをせずに、選択を遅らせることができるのが、日本社会の良い点でもある。大学を卒業する時点で、「就職口がない」と言う問題の発生はほとんどなくなるからである。それは、大学で学んだことと、何を仕事にするかに直接的な関係がないからである。しかし、そのことが日本社会では、社会人の専門的知識の少なさ、専門性の低さの原因となり、日本企業の世界市場における競争力の低さを生み出している。

企業の採用において、採用予定者の専門性を高め、仕事を限定することは、企業にとっても採用人事のリスクを高める結果となる。大学を卒業したばかりの人材は、その実践力は未知数であり、優秀な人かそうでないかの見分けは難しい。米国社会では、そのリスクを低減するために、長期のインターンシップ制度を利用して、学生の実務能力を評価する。毎年、夏休みの数カ月間を使ってインターンシップを続け、インターンシッぷで経験した業務に従事する大学卒業生は多い。さらに、米国社会では、社会経験のある人材を採用する方法も、よく利用されている。実務経験者の場合、その能力に対する評価は、社会的に定まっていることが多いからである。特に、技術者の場合、技術者の団体に加盟しているため、経歴を評価することには、あまり難しさがないからである。このような雇用の流動性を前提とした社会に移行しなければ、社会の中での人材の有効利用ができずに、社会的な生産性が低下する。

特に雇用制度の改革において重要なことは、専門家人材の流動性を高め、専門家の間での競争を活性化して、その技術力の向上をねらって、終身雇用制度を廃するとともに、それを阻害する年功賃金制度から、同一労働同一賃金制へと移行させなければならない。同一労働同一賃金制が一般化しなければ、雇用の流動性は高まらない。同一企業に継続的に所属する方が有利になり、専門職であっても転、給与の面で不利になるからである。この第2次世界大戦前に導入された、雇用の安定化を狙った制度は、日本社会で雇用の流動性拡大を大きく阻害している。それは、日本企業・日本の経済を弱めているのである。


4) 次世代を担う人々に専門家の社会的使命と生き方を教える

日本の社会で、次世代を担う専門家を育成するためには、一般家庭内における、「しつけ」を含む教育を変えることも社会的な課題である。文字の読み書きや計算能力、記憶能力を磨く幼児教育は、日本社会では極めて重視されている。しかし、「何が正しいか」「何は間違っているか」「人間はどう生きるべきか」などについてを、しっかりと教える親は、日本社会では決して多くない。それは、親たちが仕事で忙しく、子供達の面倒を見ることが難しいことにもよる。親たちにとって、子供達が通う、「教室」のための学費を捻出することが負担になっている。親たちは、働くために、子供達を保育園に通わせ、保育士にその子供たちに対する「しつけ教育」などを任せている例は多い。保育士の場合、特定の保育士が特定の幼児の面倒を見ているわけではない。特定の保育士の集団が、特定の子供たちの面倒を見ている。これは、特定の子供の目から見れば、自分を見ている保育士は変わってゆくのである。

保育園で、子供は、善いことをすれば、保育士から褒められる。悪いことをすれば、保育士から叱られる。しかし、保育士の目の届かないところで、悪いことをしても、叱られないことを子供たちはすぐに学ぶ。保育士が見ているところでは、褒められる行動をし、見ていないところでは、何をしても良いと学習するのである。保育士に褒められれば、保育士が自分の親にそのことを報告するため、親にも褒められることを子供は学習する。このようにして育った子供の中には、国語や算数の能力は高くても、倫理的な行動ができない人に育っている例がある。極端な例では、学校の先生が見ていないところで、同級生をいじめることもある。さらに、エスカレートすると、違法なことをしても、それを隠し通すことができると考えると、その行為を躊躇なく実行する人になる例がある。米国でのコンピテンシーの研究から、知識の質の良さや量の多さと、社会人として仕事で成果をあげられるかどうかは、比例するものではないことが知られている。

専門家として生きている人々にとっては、自分自身が専門家として、社会からどのような使命を期待されているかを認識していることが重要である。つまり、指示された仕事を実施することよりも、「今、自分は何をしなければならないか」を考え、その考えに基づいて、勇気をもって行動できる信念があることが重要である。そのような資質は、読み書き能力、計算能力、記憶能力、よりも早い人生の段階で、自分の身の回りで生きている人々から、自然に学んでいることが多い。日本では、「子は親の背中を見て育つ」と言う。身近な親の、「人生に立ち向かう姿勢」から、子供達は学んでいる。その学習機会を放棄して、保育士に任せてしまう今の日本社会の教育は、優秀な専門家を多く育成する環境ではない。子供達に、専門家として「どう生きるべきか」を教えられないからである。人生の早い段階、0歳から4歳ぐらいまでに、それを教えられなければ、その人は、その後の生涯で、それを学ぶことに大変な苦労をすることになる。

技術者倫理を深く学ぶための土台は、人生の早い段階で形作られる。専門家は、「誰の声を聴くべきか」を見分け、「社会からの要請や期待を認知する」能力を発揮し、自らが「今何を為すべきか」を判断しなければならない。場合によっては、自分が所属する企業や組織のためではなく、自分が所属する社会のために必要な行動を選択しなければならない場合もある。そのとき、勇気をもって「何を為すべきかに従って行動する」ことができなければ、本当の専門家ではない。みずほ銀行のシステム障害に関する問題では、誰も、銀行関係者だけでなく、ベンダー企業の技術者達も、「為すべきことをできていない」現実があった。これを変えなければならない。


(おわり)