人間、道具、社会

公開: 2019年7月13日

更新: 2024年10月25日

あらまし

人間の祖先が、ほぼ同時代に生きていたネアンデルタール人との生存競争に勝ちぬき、今日まで生存し続けている最大の理由は、人間が6万年ぐらい前に獲得した、道具を改良する力です。それは、人間の祖先たちが、絶滅の危機に直面して、集団の基規模を大きくするために、人間同士の争いを少なくし、互いの意思疎通をできるように、相互のコミュニケーションを円滑にする能力を拡張した点にあります。それによって、人間は、人間以外には不可能と思われていた、自ら考えられる機械を作り出すことができました。

8. 機械と人間の関係 〜 (9)問題のある手段を良くすること 〜

真空管式コンピュータが故障する頻度を少なくするため、使う真空管の数を少なくすることが問題になり、人間は、10進法で計算を行うことには無駄が多いことに気づきました。そこで、私たちの先輩は、「10進法」ではなく「2進法」で計算することを思いつきました。2進法では、0、1、10、11と言うように「1と0の2つの数だけで数を表します」。0と1は、10進法と同じですが、10は、10進法の2に当たります。11は、10進法では3です。同じように、100は、10進法の4になります。このように計算をすることで、10進法の3以上の数が出てくる頻度が少なくなり、その分、無駄がなくなります。回路の数を減らすことができるのです。電子を利用することで、計算は早くなり、2進法を採用したことで、真空管の故障で計算ができなくなる問題も少なくなりました。

こうした改良を基に、アメリカのペンシルベニア大学で、エッカートとモークリーにより世界で最初の電子式の計算機械が作られました。当時の計算機に計算のやり方を指示する方法は、ある計算回路と、次の計算回路を直接、電線で接続する方法でした。この計算のやり方についての指示を「プログラム」と言います。パッベージは、プログラムをボール紙に開けた穴の模様でコンピュータに指示する方法を考えていました。後に、20世紀の人々も、紙に穴をあけて、プログラムを計算する機械に与える方法を採用するようになりました。そのような紙には、バッベージの思っていたボール紙のテープに近い「紙テープ」と、1枚1枚別々になっているボール紙の「パンチカード」がありました。

1950年代に入ると、真空管に変わる電子部品として、トランジスタが発明されました。トランジスタは、ガラス状の小さな板の上に作られた金属の極と極の間の小さな隙間(すきま)を、電子が移動する現象を、その近くに置いた金属に電流を流すことで、移動ができるようにしたり、できにくくするものです。ですから、真空管のように熱で電子を飛ばす必要はありません。この原理の違いから、トランジスタでは真空管のようにすぐに寿命がくることはありません。その意味で、人間が使う計算機械の部品としては、真空管よりも、より適した部品でした。製造の方法も、真空管よりも簡単でした。

コンピュータを製造していた企業は、直ぐにトランジスタ回路を作ったコンヒュータを製造し始めました。トランジスタの採用でコンピュータを安く作れるようになったため、コンピュータの価格は著しく安くなりました。そこで、それまでよりも小型のコンピュータを大量に生産し、安く売りだしたのがIBM社でした。このIBM社が売り出した小型コンピュータは、一般の企業に数多く販売され、各企業内で、それまでは事務員が手で行っていた給与の計算などの事務作業を、コンピュータで行うようになり、人員削減ができるようになりました。

IBM社は、この小型コンピュータ事業の成功を見て、小型コンピュータを購入した企業も会社の規模が大きくなれば、計算の量も増えるので、大型のコンピュータを必要にするときがくるとの予想から、小型コンピュータから大型コンピュータまで、全ての機械を同じプログラムで動かすことを可能にするため、「似たような設計で規模の異なるコンピュータを製造する方法」を採用しました。そのコンピュータが1964年に売り出されたIBMのシステム360でした。この機械の発売によって、IBM社は世界最大のコンピュータ会社の地位に立ちました。

この頃から、コンピュータは、計算機室に集められたデータを計算するだけではなく、遠くのオフィスで入力されたデータを、その時点で処理するために、通信回線(電話)を経由して端末装置と呼ばれる遠くにある機械と結ばれた、計算機システムの心臓部になり始めました。例えば、飛行機の座席予約切符の販売システム、銀行のお客の預金口座を管理するシステムなどでした。当時の端末装置は、特定の企業向けに特別に作られた機械で、その企業の計算機室に設置された大型コンピュータとしかつながらない機械で、とても高価なものでした。ただ、その間にも、トランジスタは、それを複数集めた回路を1つの素子としてまとめた、集積回路(IC)になり、さらにそれを大規模な回路にまですることができる大規模集積回路(LSI)へと進歩していました。特に、記憶装置を大規模集積回路で作ることが容易であったため、計算結果を蓄える記憶装置は、どんどんと安く、大型化しました。

(つづく)