教育、学び、そして学校


近代日本社会の教育制度(1) 〜 江戸時代から明治維新

公開: 2024年2月11日

更新: 2024年7月21日

あらまし

250年間続いた徳川幕府の統治で、身分制度を基礎にした封建制度が続いていました。明治新政府の課題は、いかに早く、日本を西欧諸国並みの近代国家に変革することでした。当時、近代国家とは、長州藩の伊藤博文、幕府の渋沢栄一らが、渡欧して学んできた資本主義国民皆兵義務教育化された初等教育制度、高等教育を受けた人材による政府機関の業務遂行、そして大学等の人材を活用した科学技術研究の実施などの体制が整った社会でした。

西欧諸国に整いつつあったこれらの制度は、まだ日本になく、江戸時代末期に、一部の藩で、イギリスやフランスの制度を模した制度の導入が始まったばかりでした。とは言え、社会の根幹である時間制度は、不定時法のままであり、暦は太陰暦のままでした。つまり、庶民にとっては、江戸時代の生活とほとんど変わらない生活が、続いていたのでした。そのような社会的背景の中で、新政府の中心にいた人々は、一日も早い日本の近代化の進展に苦慮していました。

新政府の中心にいた人々にとって、問題の解決をより困難にしていた問題が、新政府の財政のひっ迫でした。明治維新の戊辰戦争とそれに続く西南戦争で、政府の財政は底をついていました。さらに日本社会の近代化に欠かせない、鉄道建設事業への投資もあり、近代国家建設のために投入できる資金がほとんど無かったことです。それでも新政府は、大学設置のために外国人教員を雇い、小学校教育の導入に向けての教育方法の決定と教科書制定のための人材も米国から招きました。さらに、国民皆兵制度に基づいた軍の準備と、海外からの兵器の調達も行いました。1872年、明治新政府は、教育制度を定めた「学制」を発表し、全国民に8年間の小学校教育を義務付けました。

急ごしらえの新政府でしたが、この義務教育制については、フランスで導入されていた制度を模して制定したものでした。それまで、江戸時代の初等教育は、庶民の家の子供たち、すなわち商人や農民の子の場合、「寺子屋」と言う名で知られている手習い所(てならいしょ)で、文字の読み書きや「そろばん」を教わるやり方が一般的でした。寺子屋でそれらを教える手習い師匠(てならいししょう)は、武士や寺の僧侶が多かったようです。寺子屋は私塾だったので、そのための費用は、子供たちを通わせる親の負担でした。寺子屋の授業は、入塾した子供たちが入塾年月の順に集められ、同じ書物を開いて、師匠が読む声を聴き、子供たちがそれを真似て声を出して読むという形式が多かったようです。ただ、入塾の年齢に定めがなかったため、塾生の年齢はバラバラでした。また、長期に在籍していた子供たちの中には、四書五経なども学ぶ子供もいたようです。そのような寺子屋は、全国に数万か所あったと推定されています。

武家の子供たちの場合は、「藩校」(はんこう)と呼ばれていた藩が設立した漢学塾に通いました。基礎的な文字の読み書きなどは、藩校に入る前に修得されていて、藩校の教育では、中国の古典である孔子の「論語」などを読み、内容を記憶することが主たる内容でした。将来、藩の武士として、役職に就くための準備として、中国古典に関する知識が不可欠だったからです。その藩校のモデルとなっていたのは、江戸で儒学を教えた昌平坂学問所でした。しかし、江戸末期になると、西洋の知識を応用する場面も多くなったため、武士の中には、中国の古典の知識だけでなく、洋学の知識も重要になりました。そのため、特別な私塾に籍を置いて学ぶ人もいました。

近代日本社会の教育制度(1) 〜 江戸時代から明治維新

19世紀後半の1868年、日本では、それまでの江戸幕府に代わって、明治新政府が誕生しました。これは、日本が封建社会から、近代社会へ移行することを意味していました。ヨーロッパ世界では、イギリスで産業革命が終わりに近づき、近代資本主義社会が成立していました。ヨーロッパ大陸の大国、フランスでは、フランス革命の後、共和制に移行し、経済発展が著しい時代でした。フランスに遅れたドイツでは、ドイツ帝国の産業化とドイツ帝国の建設が急がれていました。

日本の国内を見ると、約250年間続いた徳川幕府の統治で、身分制度を基礎にした封建制度が続いていました。明治新政府の課題は、いかに早く、日本を西欧諸国並みの近代国家に変革することでした。当時、近代国家とは、長州藩の伊藤博文、幕府の渋沢栄一らが、渡欧して経験してきた資本主義国民皆兵義務教育化された初等教育制度、高等教育を受けた人材による政府機関の業務遂行、そして大学等の人材を活用した科学技術研究の実施などの体制が整った社会でした。

西欧諸国では整いつつあったこれらの制度は、まだ日本になく、江戸時代末期に、一部の藩で、イギリスやフランスの制度を模した制度の導入が始まったばかりでした。とは言え、社会の根幹である計時法は、不定時法のままであり、暦は太陰暦のままでした。庶民にとっては、江戸時代の生活とほとんど変わらない生活が続いていました。そのような社会情勢の中で、新政府の中心にいた人々は、一日も早い日本の近代化に苦慮していました。

新政府の中心にいた人々にとって、問題の解決をより困難にしていた問題が、新政府の財政のひっ迫でした。幕末の戦争とそれに続く西南戦争で、政府の財政は底をついていました。さらに日本社会の近代化に欠かせない、鉄道建設事業への投資もあり、近代社会の建設のために投入できる資金がほとんど無かったことです。それでも新政府は、大学設置のために外国人教員を招き、小学校教育の導入に向けての教育方法の決定と教科書策定のための人材も米国から招きました。さらに、国民皆兵制度に基づいた軍の準備と、海外からの兵器の調達も行いました。1872年、明治新政府は、教育制度を定めた「学制」を発表し、全国民に8年間の小学校教育を義務付けました。

急ごしらえの新政府でしたが、この義務教育制については、フランスで導入されていた制度を模して制定したものでした。それまで、江戸時代の初等教育は、庶民の家の子供たち、すなわち商人や農民の子の場合、「寺子屋」と言う名で知られている手習い所(てならいしょ)で、文字の読み書きや「そろばん」を教わるやり方が一般的でした。寺子屋でそれらを教える手習い師匠(てならいししょう)は、武士や寺の僧侶が多かったようです。寺子屋は私塾だったので、そのための費用は、子供たちを通わせる親の負担でした。寺子屋の授業は、入塾した子供たちが入塾年月の順に集められ、同じ書物を開いて、師匠が読む声を聴き、子供たちがそれを真似て声を出して読むという形式が多かったようです。ただ、入塾の年齢に定めがなかったため、塾生の年齢はバラバラでした。また、長期に在籍していた子供たちの中には、四書五経なども学ぶ子供もいたようです。そのような寺子屋は、全国に数万か所あったと推定されています。

武家の子供たちの場合は、少し違っていて、一般的には、「藩校」(はんこう)と呼ばれていた藩が設立した漢学塾に通いました。基礎的な文字の読み書きなどは、藩校に入る前に修得されていて、藩校の教育では、中国の古典である孔子の「論語」などを読み、内容を記憶することが主たる内容でした。将来、藩の武士として、役職に就くための準備として、中国古典に関する知識が不可欠だったからです。その藩校のモデルとなっていたのは、江戸の儒学を教えた昌平坂学問所でした。しかし、江戸末期になると、西洋の知識を必要とする場面も多くなったため、武士の中には、中国の古典の知識だけでなく、洋学の知識も必要になっていました。そのため、特別な私塾に籍を置いて学ぶ人もいたようです。

1868年、明治新政府は、学校制度案の作成に着手しました。1871年、明治新政府は、「大学規則」で教育制度の大枠を発表し、次の年(1872年)文部省を設立しました。文部省は、1872年に「学制」を公布し、新しいフランス式の初等教育制度を模範とした8年制の制度を発表しました。その上に、中等教育制度と、全国に8大学を設置する計画になっていました。しかし、当時の日本社会では、社会の全ての子供たちに、8年の年月を小学校で学ばせるという制度は、理想像でしかありませんでした。特に、一般の人々の5人に4人は農民であり、そのほとんどが貧しい小作農に従事する人々でした。8年間の期間に渡り、子供たちを学校に通わせる経済力は、庶民にはありませんでした。しかし、政府の目から見れば、小作農の次男や三男でも、将来、大切な兵士になる人材でした。その兵士が、読み書きができなければ、兵隊として使いものになりません。最低の知識を与えておかなければならないのです。

新政府は、この社会の現実と、教育のあるべき姿との差に悩みました。この矛盾を解消するために政府は、1877年教育令を発表し、日本の義務教育制度をより現実的なものに変更しました。小学校への修業年限は変わりませんでしたが、小学校を前期と後期に分け、前半の修業年限のうち、最低通学期間を16か月と短縮しました。8年間を実質的に16か月にしたため、その期間で教えられる知識の量は、大幅に少なくなりました。これによって、明治初期の初等教育は、江戸時代の寺子屋の読み書きとそろばん程度にまで、圧縮されました。それでも、日本の全ての国民を対象にしたため、日本社会の識字率は、他国に比較すると、大きく向上しました。

この小学校教育における教育内容の圧縮によって、小学校教員の供給問題は、当面の課題として表面化しないようになりました。かつて、寺子屋で読み書きそろばんを教えていた人々を、小学校の教員として、その仕事に従事させることが可能になったからです。西洋の算数に通じていなくても、算術を教えることができたからです。後に和算の知識がありながら、西洋式の算数の知識が無かった人々の中に、算数を学び、その教授ができるようになった、元寺子屋の教師も増え、正式な小学校教員に登用された人材も出現したとの記録があります。1882年頃になると、小学校では男児の場合、約半数の子供たちが、日本語の読み書き、四則演算、習字、体育を習うようになりました。

学制導入で、新政府は、小学校の教授法として、17世紀のポーランドで提唱されたコメニウス法を採用しました。これは、今日でも学校や進学塾で利用されている方法で、一人の教師が多数の学習者を対象に、問題とその解き方などを説明し、その説明の後で、個々の学生に、類似の問題を解かせて、知識を学ばせる方法です。この方法は、教授対象の学習者の事前知識に大きな差がなく、理解能力にも大きな差がなければ、一度に数多くの学習者に知識を授けることが可能なため、大変効率の良い方法となります。ただし、学習者が教授者の説明を確実に理解し、類似の問題を自分の力で解けるようになったのか、それとも、「教えられた解き方を記憶して、理解しないで、解いたのかを判別する」ことは機械的にはできません。

学習者が、与えられた問題に正解できたことが、教授者の説明をしっかりと理解したかどうかを判定する基準にはなりません。このことが、大きな教室での大人数の講義に向いている半面、その効果に疑問が生じる難点があります。例えば、3分の1に2分の1をを加えると、答えが6分の5になる」ことを教える時、3分の1と2分の1を通分して,6分の2と6分の3にして、和を求めることが可能です。しかし、分母の3と2を乗じた6を分母にして、分子を2と3として和をとれば、分母は6、分子は、5と計算できるので、6分の5を答えにできます。両方とも正しい答えであり、差はありません。しかし、分数の和を計算するには、分母を共通にしなければならないという理屈を、理解しているかどうかは、答えからでは分かりません。

(つづく)