公開: 2024年2月2日
更新: 2024年7月20日
近代日本社会の教育制度は、1872年の学制」(がくせい)の制定によって、その基礎が築かれました。この「学制」は、フランスの教育制度を参考にして定められており、全ての国民に8年間の、小学校教育への就学を義務付けたものでした。これは、当時の日本社会の実情を無視した制度で、民衆からの強い反発を受けました。当時の日本社会では、8年間の就学は、貧しかった国民の、個人の生活に対する影響が大きく、さらにそのために必要な学校施設の建設や、小学校教員の人材不足を解消するために必要な国家財政の不足が問題になりました。このとき、アメリカ人スコットの提案した「一斉教授法」が導入されました。社会の現状にそぐわなかった学制は、1877年の教育令によって、アメリカ式の義務教育制度に修正されました。
現在の日本社会でも、明治維新の学制とそれに続く教育令に従った義務教育が実施されています。大日本帝国が、1945年に、アメリカ合衆国を中心とした連合国軍との戦争(第2次世界大戦)に敗戦し、無条件降伏を条件としたポツダム宣言を受け入れた後、日本社会を統治した、司令官マッカーサーを中心とした連合軍総司令部(GHQ)は、日本社会を民主化することを目的として、日本国憲法を制定させました。さらに、日本社会の教育制度も、その思想に適合するように、刷新することを意図して、新しい「6-3-3-4制」の12年間の教育制度を導入しました。しかし、初等教育の小学校6年間と、中等教育前半3年間の中学教育に置おける教育内容は、その大部分が明治時代の改正教育令を基礎としたものを踏襲しました。天皇への忠誠を教えた「修身」も、「道徳」と改名されただけで、本質的な内容は、ほとんどそのままにされました。
日本経済が高度経済成長を続けていた1960年代から1970年代まで、この戦前から踏襲された教育制度は、当時の日本社会において、社会に必要な人材を育成し、その人材を社会へ供給するという機能を、効率よく果してきました。ただし、それは小・中学校の教育が、正常に機能していたからではなく、日本社会に、偏差値に基づいた教育制度を根付かせ、公教育の問題を是正する機能を担った学習塾や予備校が、補助教育機関として社会に位置づけられました。それは、中等教育と高等教育における、学校の序列化を生み、多くの「落ちこぼれ」生徒・学生を生み出す原因となりました。さらに、小中学校教員の長時間労働の原因になり、日本の義務教育の質の低下を招いたと言われています。そして、裕福な家庭の子供たちは、公立小中学校に入学しないようになり、学校間格差も、増大したと考えられています。
近代日本社会の教育制度は、1872年の「学制」(がくせい)の制定によって、その基礎が築かれました。この「学制」は、フランスの教育制度を参考にして定められており、全ての国民に8年間の、小学校教育への就学を義務付けたものでした。これは、当時の日本社会の実情を無視した制度で、民衆からの強い反発を受けました。当時の日本社会では、8年間の就学は、貧しかった国民の、個人の生活に対する影響が大きく、さらにそのために必要な学校施設の建設や、小学校教員の人材不足を解消するために必要な国家財政の不足が問題になりました。このとき、師範学校が設立され、アメリカ人スコットの「一斉教授法」が導入されました。しかし、社会の現状にそぐわなかった学制は、1877年の教育令によって、アメリカ式の義務教育制度に修正されました。
現在の日本社会でも、明治維新の学制とそれに続く教育令に基づいた義務教育が実施されています。大日本帝国が、1945年に、アメリカ合衆国を中心とした連合国軍との戦争(第2次世界大戦)に敗戦し、無条件降伏を条件としたポツダム宣言を受け入れた後、日本社会を統治した、マッカーサーを中心とした連合軍総司令部(GHQ)は、日本社会を民主化することを目的として、日本国憲法を制定しました。さらに、日本社会の教育制度も、その思想に適合するように、刷新することとして、新しい「6-3-3-4制」の教育制度を導入しました。しかし、初等教育の小学校6年間と、中等教育前半の中学教育3年間に置ける教育の内容は、その大部分が明治の改正教育令を基礎としたものを踏襲しました。天皇への忠誠を教えた「修身」も、「道徳」と改名されただけで、本質的な内容は、ほとんどそのままでした。
日本経済が高度経済成長を続けていた1960年代から1970年代まで、この戦前から踏襲された教育内容は、当時の日本社会において、社会に必要な人材を育成し、人材を供給するために、効果的に機能していました。ただし、それは小・中学校の教育が正常に機能していたからではなく、日本社会に、偏差値に基づいた教育制度を根付かせ、公教育の問題を是正するために、塾や予備校が必須の補助教育機関として根付いたからでした。それは、中等教育と高等教育における、学校の序列化を生み出し、義務教育課程において、無視できない数の「落ちこぼれ」生徒・学生を生み出す原因となりました。さらに、このことは小中学校教員の長時間労働の原因の一部にもなり、日本の義務教育の質の低下を招いたと言われています。裕福な家庭の子供たちは、そのために、公立小中学校に入学しないようになり、学校間格差も、増大したと考えられています。
日本社会が、高度経済成長期を過ぎた頃から、高等学校卒業生の3割を超える生徒が、高等教育機関へ進学するようになり、その高等教育機関での、入学時の偏差値による序列化が進み始めたため、正規の教育制度には組み込まれていなかった「大学進学予備校」の役割が重要視されるようになりました。それは、高校生が、より高い偏差値の大学へ入学するために必要な情報を、予備校が収集していたからです。高校生にとっては、より入学偏差値の高い大学へ入学することが、より社会的評価の高い企業や公的機関への就職を可能にすると考えられていたからです。高校生には、自分の選択した大学の、自分が選択して入学した学部・学科で受ける教育には興味はなく、入学先の大学の偏差値と、自分の偏差値、そして大学名だけが問題なのです。入学後に、自分の適性に適合した教育が受けられるかどうかは、気にしていないため、途中で学びの継続をあきらめるリスクがどれくらいあるのかは、意識されませんでした。
日本社会において、大学進学率が約50パーセントに近づいた頃から、各大学における入学者数と、その卒業者の推移を見ると、大学教育の途中で脱落する学生の率が少しずつ上昇し始めました。その原因の一つには、日本社会全体の景気低迷で、経済的な理由によって、大学を退学する学生数の増加もありましたが、教育内容と自分の適性が不適合で、大学を退学することを選択する学生数の増加も無視できなくなりました。同時に、企業側の就職選抜も厳しくなり、卒業しても就職できない学生数も増加していました。これも、学生個人の適性と、専門性の不適合の結果と言うことができます。偏差値で、進路を選択することの問題点が明確になってきました。
この従来型の教育制度の機能不全は、なぜ起こったのでしょうか。それは地球規模で、特に先進諸国経済に大きな影響を与えている、科学技術の進歩と、それに基づいた経済の大変革が起こしていた、知識の爆発的な拡大でした。近代社会が始まり、世界の先進諸国で産業革命が起こり、人類が獲得した新しい知識の量は、時間の経過と共に爆発的に増大しています。明治維新に生きていた子供達には想像でないほどの新しい技術や製品に囲まれて、今日の私たちは生活を営んでいます。そのような科学技術を応用して生活する私たちは、明治維新に生きていた人々とは比較にならないほどの量の、、新しい知識を活用できなければ、普通の生活すらままならないのです。その知識を、現代人は学ばなければならないのです。その例の一つが、60年前には夢物語だった「コンピュータ」です。
日本が、第2次世界大戦に敗戦した直後の1951年、漫画家の手塚治虫によって「アトム大使」が描かれ、その後、雑誌「少年」(光文社)に1952年から1968年まで連載された漫画の主人公、鉄腕アトムは、超小型の電子頭脳を持った人型ロボットです。電子頭脳とは、現在のスマートフォンに搭載されているコンピュータのことです。鉄腕アトムの漫画が描かれるまで、日本人のほとんどは、コンピュータを知りませんでした。そして、それからわずか70年ほどで、その漫画の電子頭脳を、私たちが日常生活に利用することを想像した人々は、日本にはほとんどいなかったでしょう。米国の大学で、真空管式の世界で最初のコンビュータが開発されたのは、1949年です。これほど、現代社会の技術進歩は、急激に進んでいるのです。
人工知能AIの基礎となった脳の神経伝達のモデルである、「ニューロン・シナップス」モデルが米国で発表されたのは、1943年でした。コンピュータによる機械の学習は、この理論に基づいています。コンピュータも人工知能も、人類は1940年まで知らなかった知識だったのです。現代の社会に生きている私たちは、これらの知識の詳細は理解していなくても、それがどのような働きを持つかを知らなければ、仕事をすることすらできません。現在、小学校の初等教育でも、コンピュータに関係する知識として、「プログラミング」を学ばせようとしているのは、そのような理由からです。しかし、それを学ぶ小学生は、明治維新に生きていた子供たちとほとんど変わらない、10才ぐらいの子供たちです。
学習しなければならない知識が、これほど変わり、学ばなければならない知識の量がこれほど大量になっているにもかかわらず、18世紀に提案された一斉教授法で、小学生に知識を詰め込むことは、合理的な教え方と言えるのでしょうか。小学生が、同じ小学校教育の6年間に、記憶しなければならない知識の質も量も、明治維新や昭和の初期の頃とは全く違うのです。日本の教育制度は、子供たちの能力に適合させるように、制度を変えなければならない時期を見失いました。