なぜ、今、日本でDXが議論されるのか

公開: 2021年4月15日

更新: 2021年5月31日

あらまし

資本主義先進諸国では、今、何が問題と考えられているのか。そして、その問題を解決するためにどのような対応が議論されているのかについて分析してみる。そこから、DXの議論がどう関係するのかを考えてみる。

世界で起きていることとの関係〜世界が直面している課題と議論されている対応策

2000年以後の世界経済は、そのグローバル化が、世界規模で著しく進んだ。その結果、各国の国民の間に2つの問題が発生した。その一つは、グローバル化を市場を中心とした資本主義の必然として、経済発展のために、それを「受け入れるべきこと」と捉える人々と、グローバル化は各国の大多数の国民生活を圧迫する出来事として「反対すべきもの」、「制限すべきもの」と考える国家主義的な人々の分断である。一般的には、20世紀の産業化社会の急速な発展で最も利益を得た工場の(プルーカラー)労働者を中心とした中産階級の人々が、その国家主義的な傾向を最も深めた。米国では、トランプ元大統領の支持層であった「貧しき白人労働者階級」にその傾向が強かった。それは、世界経済のグローバル化で、中産階級から、相対的貧困層への転落を余儀なくされた人々だったからである。その人々は、各国が世界規模での貿易を制限し、国家規模の経済運営に集中すれば、かつての社会のように、工場に仕事が戻ると考えていた。しかし、そのことは、結果的に自分達の国と世界の経済を同時に縮小させ、全体としては全ての国の国民が、貧しくなるのである。イギリスで産業革命が始まって以来、これまで、年率約2パーセントで成長し続けてきた世界経済は、その成長率を保つことができなくなる。グローバル化を推進しようとする人々は、世界経済の拡大を望んでいた人々であった。しかし、世界経済の拡大は、今の世界の制度の下では、社会における人々の大多数にとって、格差を拡大するだけでなく、人類全体の連帯感を崩壊させ、人類世界の存続そのものを脅かす可能性がある。

もう一つの問題は、世界の経済がグローバル化することは、個々人の間の競争も、地球規模に拡大することを意味する。つまり、これまでは個々人の間の競争は、各国の国内に限定されており、局所的で、地域内に限られた相対的な競争であった。しかし、グローバル化した世界では、個人の間の競争も世界全体の中での競争、すなわち全世界の人々との国境を越えた競争に拡大する。このことは、競争の勝者にとっての利益は最大化されるが、全世界の勝者の数は一握りであり、一人一人の人間から見れば、勝者として生き残れる確率は極めて小さくなる。競争は、よりハイリスク・ハイリターンの傾向を強くする。この競争に生き残れるのは、一部の強者だけに限られる。つまり、ほとんどの人々は、敗者となる運命にある。そして、勝者と敗者の間の格差は、放置すればこれまでとは比較にならないほど大きくなる。それは、社会の構成員である我々すべてを、本当に幸福にするのだろうか。これまでの価値観で言えば、ごく一部の人たちだけが幸福になり、大多数が不幸になると言う結論になる。そのような制度のままで、人類は生存し続けられるのであろうか。むしろ、全体の経済規模を縮小しても、競争を抑制し、経済成長も制限した方が、結果的に多くの人々を幸福にできるのかもしれない。それが、トランプ支持者たちの主張でもある。それは、極端な表現を使えば、人類を原始共産社会へ回帰させるのに等しいことと言える。皆が等しく貧しくなれば、相対的な貧困は消え去るからである。

市場を中核にした資本主義経済では、全ての決定を完全に市場の参加者の自由な選択に委ねる。そして、多くの場合、中世社会の王様のように、競争の勝者が全てを「独り占め」する結果になる。それでは、これからの人間の社会は成り立たないであろう。中世から近代にかけて、資本主義が成立する頃のヨーロッパ世界は、まだ、中世的なキリスト教の倫理観が根強く社会を支配していた。国富論(原題は「諸国の富」)を書いたアダム・スミスも、スコットランド社会の根底にあったキリスト教の倫理観を前提に、市場が運営されることを前提にしていた。それから200年が経過し、市場中心の資本主義は世界中に広まった。しかし、その市場に参加している人々の倫理観は、市場に参加している個人個人が属しているそれぞれの社会が、その背景としている、宗教や慣習、思想を前提としている。そして、それらは、キリスト教の倫理観とは全く異なる思想に裏付けられている例もある。例えば、中国やイスラム教の国々がそうである。その結果、市場における「制限のない競争の原理」だけが世界に浸透し、需要と供給の均衡を保つことだけが、市場に求められる唯一の機能となった。これが、今、先進諸国の間で問題となっている、「強欲資本主義」を生み出したのである。人間の理性(思考力)を最大限に活用し、資本の利益率を極大化することだけを目標として、事業を世界規模で展開し、市場の競争で勝つことによって、最大の利益を得ようとするのである。そこでは、投資の対象となる事業内容の倫理性は問題にされない。事業の結果として得られる、利潤の大きさだけが評価の対象となる。

特に最近では、具体的な製品や生産物の売買を想定しているわけではない金融市場では、資本の役割を担う「お金のやり取り」(つまり借金)そのものも、売買の対象になっている。「知らない誰かの借金も、債権と言う形式で細かく分割され、数多くの人々(資本家)が分担することでリスクを分散して、その債権を市場で売買する」事業までもが出現した。これによって、債務者が契約した利率で、借金をした人から将来支払われるであろう利子(期待される利益)を求めて、資本家が債権を買うのである。資本力のある資本家は、個々の債権の売買では損失を被る場合があっても、投資全体で考えれば、利率が十分に、高く設定されているため、いくつかの投資で利益が得られれば、投資元本である資本を、増やすことに成功できる。まさに、「お金がお金を生む」状態が成立する。この極端な例に示されるように、制約のない資本主義では、長い目で見れば、「金持ちだけが利益を手にする」結果となる。それは、本当に「公平な競争」「真っ当な事業」と言えるのであろうか。貧しい家庭に生まれた人々とその子孫は、豊かになれない仕組みである。

20世紀が始まった頃、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、米国社会は資本主義が最も成功した社会であると述べた。それは、当時の米国社会には、キリスト教の精神に基づいたプロテスタントの倫理観が根付いており、富の蓄積を「善いこと」とする考えがある一方で、「浪費を悪」と考える傾向が一般的であったことが基にあるとした。さらに、アメリカ人には、「一秒たりとも時間を無駄にしてはならない」とする資本主義的な合理性追求の精神があった。そして、自らが築き上げた富は、社会にも還元すべきとする考え方が、社会全体に浸透していた。そのような資本主義を発展させる社会的背景が、プロテスタント的倫理観に満ちていた当時の米国社会には、ヨーロッパ社会に比較すると、資本主義の発展を飛躍的に推し進める可能性があるとヴェーバーは考えた。現実に、20世紀を通して、米国社会は飛躍的な経済成長を遂げ、「世界一豊かな国」と言われるようになった。

そのような近代的資本主義精神の根底にあったプロテスタンティズムは、20世紀初頭に米国社会で誕生したプラグマティズム哲学の台頭によって、米国社会では少しずつ主流ではなくなっていった。全てを相対化して考えるプラグマティズムの哲学では、資本主義で大切なことは、「より少ない投資で、より多い利益を得ること」と考えられるように変化していった。その結果として、今日の、特に米国社会における企業経営では、「社会のために多くの人々が必要とする製品やサービスを生み出す」ことよりも、「より大きな利益が得られる製品やサービスを展開すること」を重視すべきであるとする、新しい経営理念に変わっていった。その過程で、企業に労働力を提供する従業員とその忠誠心は、企業にとって最も重要な資産であるとする「古い」企業経営者の考え方は薄れていった。企業は、資本家と従業員、そして顧客達のものではなく、資本家(投資家)の所有物であるとする考え方が、20世紀末の米国社会で、急速に広まった。強欲資本主義の誕生であった。

このような20世紀末からの米国社会における、産業化社会から「新しい資本主義社会」構築への流れの中で、米国企業は、自分自身の存続、経営規模の拡大、そして利益の増大を追求した。その結果、経営のグローバル化を推進し、その結果として、労働コストの高い米国内における生産工場の規模を縮小し、労働コストの低い開発途上国へと生産工場を移転させる生産の海外移転を実施した。その結果として、労働コストが周辺諸国よりも高かった米国社会では、大量のブルーカラー労働者解雇が行われた。この生産拠点の海外移転により、多くの企業で収益性は高まったが、1990年代初頭における米国内の失業率は8パーセントに迫っていた。家庭の生活費を生み出すため、労働者の多くが「ダブルワーク」を行い、個人個人の家庭生活は崩壊状態に近づいていった。1990年頃、米国社会で同時に進行していた労働人口の高齢化と、特に知的作業に従事する専門家労働者の若年化は、企業が経験の乏しい労働力を低い給与で多く雇用し、仕事に従事させる結果となった。それは、米国企業の経営上の失策を多発させ、最終的に米国企業の経営を圧迫し、結果として、1990年代前半の米国社会全体の経済を、弱体化させた。

一方で、米国政府は米国社会の再興を目的とした施策を採用し始めていた。「21世紀型の産業の振興」と、「新しい経営者人材の養成」、さらに「21世紀の社会を維持するための社会の形成とそのための制度の確立」である。21世紀型の産業としては、米国に優位性が高かったインターネットを活用した事業の活性化が政策となった。古い業態を維持していた銀行業や書籍販売業を、情報を活用した新しい形態の事業に転換するなどであった。電子書店の「アマゾン」や、インターネット銀行の「ウエルズ・ファーゴ」のサービスがすでに利用可能となり、一時的に成功しつつあった。アマゾンは、多品種少量販売の書籍販売を、モノとしての書籍を扱わず、その売買に関する情報だけを扱う事業だけに特化して、情報産業の事業として展開した。巨大な書庫を必要とする書籍販売から、書庫をなくしたのである。ウエルズ・ファーゴ銀行では、州単位での営業しか許されていなかった米国の銀行業界に、インターネットを利用することで、州や国をまたいだ顧客の獲得を可能とする道を開き、サンフランシスコ地域の銀行を、世界的な銀行に押し上げていた。

新しい経営者の養成については、多くの米国有名大学に「起業家の養成を目的とした修士課程」を作り、起業を目指す人々に企業経営のやり方を教えるようにした。さらに、学生を支援するために、1990年代までの産業化社会の時代に、大企業の経営に携わった人々(高齢者が多かった)を個人的に採用し、企業における管理・監督の実務を教える人々を教育現場に送り込み、また、企業の指導員として現場へ送り込むなどもした。これは、長く続いた不況で、大企業での職を失った企業の元経営者や元役員に、新たな活躍の場を与えると言う意味でも、成功したやり方であった。財務管理業務や工場の管理・運営など、教科書に記述できる知識だけでは実務を行うことが難しい問題に、若い経営者でも立ち向かえるように支援できる枠組みを提供したのである。当時、不況にあえいでいた古いIT産業からも、高学歴の経験者が、新しい活躍の場を求めて、若い起業家と一緒に働く光景が、珍しいものではなくなった。

最後に、21世紀の産業を支える枠組みとして、新たに誕生した企業に運転資金を貸与する機構として、「ベンチャーキャピタル」の設立援助や、すでに評価を確立している大企業からベンチャー企業への投資を促進するための優遇税制など、ハイリスク・ハイリターンの投資を支援する法制度の導入を行った。さらに、新規参入者として、実績の乏しいベンチャー企業でも、政府などの競争入札に参画し、内容次第では調達競争に勝ち残れるような「公平な調達」制度の確立に関する法改正などを導入し、インターネットを活用した調達プロセスの整備を中央政府主導で進めた。これによって、調達情報の公開から、入札、落札者の決定、契約書の締結までを、インターネットだけでも実施できるような仕組みが整った。さらに、従来の米国社会では、当然のこととして受け入れられていた商習慣も、市場の自由化と競争原理の徹底のために、見直され、必要に応じて法律の改正が行われた。さらに、米国企業の製造拠点をメキシコへ移転する決定を支援するため、北米圏自由貿易協定(NAFTA)の調印を目指した協議も進んでいた。

新しい社会の形成に必要な法律の一つとして、従来の商習慣では認められていなかった、コンピュータのプログラムによる意思決定を可能として、コンピュータの通信と意思決定を伴う情報処理、例えば決裁などの処理、が法的に許されるようになった。さらに、そのために、個々のコンピュータ内で動作する時計の時刻が、標準時刻からの誤差を、どれくらいまでの範囲に維持しなければならないかとする電子決済のための規則を、新しく制定した。これは、コンピュータによる決済で、閉め切り時間が設定されている場合や、締め切り時間までの入札で最も安い額や最も高い額での入札を選ぶ場合、ある情報を「いつ受け取ったか」が商取引上、重要になるからである。これは、送り出す側のコンピュータでも、情報を受け取る側のコンピュータでも、同じように重要である。コンピュータの場合、1秒に実行できる計算の量は、人間と違って膨大であり、その時間のずれを悪用することが可能だからである。

以上のように、米国社会では、1990年代の10年間に、21世紀の社会に必要となる可能性がある様々な問題を想定し、その準備に取り掛かっていた。その間、日本社会は、1990年代初頭までの経済発展に酔いしれ、また、1990年代に始まった金融機関の破たんと再編に手一杯で、21世紀の社会形成への対応をほとんど準備しなかった。さらに、21世紀に入って、世界全体が大きく変わろうしてからも、個別に発生した問題に対する個別の対応に追われ、長期的な視点に立った改革に着手しなかった。これは、米国の専門家達からたびたび指摘されていた、日本人と日本社会の「変化を嫌う」傾向が強く作用し、個別の問題に気を取られて、それぞれの問題についてもっとも副作用の小さそうな解決策を見出すことに終始努力したためだと言える。世界が21世紀に入って、20年の歳月を経て、今の日本社会は、小手先の問題解決ではどうにもならない局面に陥っている。

第2次世界大戦の末期、戦局が著しく悪化していたにもかかわらず、「国体の護持」を優先する陸軍首脳部に引っ張られて、「一太刀を浴びせてからの少しでも有利な条件での講和」を希望し、無駄な戦いを続けた日本の軍事政権が犯した誤りと似たような誤りを、日本社会は繰り返そうとしている。奈良時代の中央集権国家成立の時、明治維新の時、日本社会が本当の危機に直面して、かつての日本国民は自分達の国の体制を変革してきたが、日本社会で本当に経済が破たんすることが明らかになった時、日本人と日本社会は古い日本を捨て、新しい日本国家の建設に立ち向かうのかも知れない。しかし、今、我々が生きている世界においては、そのような国家の再興は、あくまで理論上の可能性でしかない。現実には、許される時間を考えると、ほとんど不可能と思われるほど、時間的な制約の厳しい国家の再興になるであろう。

今、世界で社会のデジタル変革が叫ばれている背景には、上述したような各国の社会における政治・経済・倫理の大変革を必要とする事態が進みつつあり、個々の企業も、国も、国民も、その事態への対応を模索している。分かり易く言えば、世界は21世紀の「新しい秩序の構築」に向かって、歩みを進めているのである。その世界像の理解なしに、表面的な情報通信技術の利用と、社内組織の改編だけを議論するのは、小手先の変化だけで、この巨大な波を乗り越えようとしているのに等しい。明らかに、国家の行く末を見誤った対応としか言えない。今は、一歩先に進んだかのように見える米国社会と言えども、様々な問題を抱えている。格差社会の問題や、人種間の相互排斥問題、自国主義思想の波などはその例と言える。ヨーロッパの国々でも、格差の解消は、解決が難しく、極めて深刻な問題である。

市場を中心とした資本主義の発展によって、経済的な豊かさを求める競争は、もともと豊かな人々にとって有利な競争になっている。一見、平等に見える原理の下での競争も、豊かな階層に属する人々とその子供達と、大多数の相対的に貧しい階層に属する人々とその子供達との間での、経済的豊かさを競う戦いになっている。もともと、多くの資産を持つ人々に有利な資本主義の競争で、余裕のない貧しい人々やその子供たちが豊かな人々に挑んでも、長い目で見れば勝目はない。つまり、勝敗は始めから決まっているのである。特に、子供達のことを考えると、相対的に貧しい階層の家庭に生まれた子供達には、良い教育を受ける機会が限られている。この問題をうまく解決できても、教育を受けた後の社会生活で、余裕のある豊かな家庭に生まれた子供との競争では、長い時間、貧しさに耐えても必要な経験を学ぶことに関して、貧しい家庭に生まれた子供たちは不利である。人々に与えられる機会は平等だとしても、その機会を活かし、成功するためには、何度もの挑戦と失敗を繰り返さなければならない。つまり、自分の出身階層が、経済的に豊かであれば、自分に勝ちが来るまで、挑戦を繰り返せる。今の制度の中では、この格差は、貧しい階層の人々には、永久に克服できない。これは、貧しい人が、博打に勝つことが難しい問題と同じである。経済的「豊かさ」は、必要条件ではあるが、十分条件ではない。

このような基本的な問題を内包した今の社会の制度を変革し、なるべく誰にも平等に機会を与えられるような社会を築かなければならない。ヨーロッパ社会では、世界企業が莫大な資産を築けるような今の時代、企業の収益に課税をして、それを社会に還元すべきとする思想が生まれている。それは、19世紀の共産主義に似ているように見える。しかし、世界はこの200年間に大きく発展した。企業が集められる資本は、その株主に分配すると、株主の資本利益は、非倫理的と言えるほど大きくなる。また、その企業の経営者に支払われる給与は、常識では許されないほど多額になる。株主も経営者も、個人としてはそれほどの利益配分を必要としていないのである。経営者についていえば、彼ら・彼女らは、自分達の「企業にどれだけの利益をもたらしたか」が評価であり、その実績自体が褒賞である。金銭を本当に手にすることには、大きな意味はないはずである。

このような前提から、「ベーシック・インカム」と言う制度が提案されている。全ての国民に対して、必要最小限の生活費を政府が配分する方法である。これによって、職を失うことで、経済的な苦境に陥ると言う問題は回避できる。どんな階層に生まれた人でも、教育を受けることができれば、そこで得た知識と自分の創意工夫で、新しい事業を考え出し、提案して、挑戦することが可能になる。現代の社会は、余剰の資金・資本が十分に生かされていない。そのような社会的な余剰資金を政府が集め、公平に分配すれば良いのである。資本主義の発展で生まれた「強欲資本主義の結果」と呼ばれるような問題はなくなり、有能な人々に、公平に新事業の提案を可能にする社会的な基礎を作ることができると考える人々がいる。

20世紀の半ばまで、米国社会では教会を中心として形成されていたコミュニティが、そのような相互ほう助の機能を担っていた。経済が破たんした家庭の子供達を養子として手分けして育てたり、食事に困った失業者に対して、寝る場所と食べ物を無償で提供するなどである。このような活動は、主として相対的に豊かな家庭からの善意と寄付で支えられていた。かつて貧しかった米国社会に定着した社会的なコミュニティ制度の名残りであった。教会のキッチンの冷凍庫にいつも蓄えられている、大量の調理済みの料理は、その教会のメンバーの中から輪番制で選ばれた人々(女性)が、各家庭から持ち寄った食材を集め、料理したものであった。このことは、個人としては経済的に破たんしたとしても、再起を願って挑戦を続けることが可能であることを示していた。1990年代になるとそのような米国社会の伝統的な風習は少しずつ消えていった。そして、公的機関やNPOの活動に置き換わっていったのである。そして、米国社会でも、一度、ホームレスになると、再起が不可能な社会に、変わりつつある。ベーシック・インカム制度の提案は、その文化の延長線上にある。

このベーシック・インカム制度を、日本社会へ導入しようとすると、様々な障害が立ちふさがる。その第一は、ベーシック・インカム制度を運営するために必要になる税などの収入源をどうするかである。今の日本社会では、個人の収入を把握するために必要となる情報の収集が難しい。個人の収入を把握できなければ、誰が給付の配布を受け、誰が給付金の負担を担うかを決めることはできない。現在の日本社会では、行政機関が補足できない収入や支出が多過ぎるのである。その原因は、資産を現金で所持し、収入を銀行振込などの第三者機関を経由せずに、現金で受け取り、同じように何かを購入する場合にも、現金で支払う習慣が根強く残っているからである。現金でのモノの売買は、必要なモノを安い価格で購入できる場合がある。また、販売する側では、現金を受け取ることで、違法ではあるが、売上げとして計上しない収入、すなわち税金の支払いを逃れることができる収入にできるからである。このことが、数十年に渡って国家として、米国の社会保障番号に相当する制度の導入を阻害した、主たる理由であった。また、所得税の徴収や、小規模事業者から精確な消費税の徴収ができない理由になっている。デジタル・トランスフォーメーション改革によって、収入や支払いに関する詳細なデータを発生源で収集すれば、このような「不正」は不可能になるが、日本の国民はそれを望むであろうか。

今の資本主義では、仕事に従事した経験から学ぶことが多い。このため、仕事に従事して経験を積むことができなければ、社会的に成功することはできない。ベーシック・インカム制度はその機会をできるだけ多くの人々に、公平に提供しようとする仕組みである。このベーシック・インカムの制度が、2018年のダボス会議で議論されたとき、日本から出席した銀行経営者である討論者は、「ベーシック・インカム制は、労働者から働く意欲を奪う」と言う、前時代的な視点からの意見を述べた。これは明らかに、「19世紀の世界に誕生し、20世紀末に明らかになった共産主義の失敗」を踏まえた意見である。21世紀以降の時代は、知的労働が中心の社会になる。そのような社会で、競争できる人材を、富裕層に属する人々に限定する今の制度では、世界的に人材不足が起こり、世界経済は閉塞する。現代社会は、情報技術を駆使することで、膨大な事務処理を短時間に、効率良く行うことができる。200年前の世界とは、全く、違う環境に人類は生存している。人類の叡智を最大限に利用できるようにするためにも、DXをテコにした社会的な改革が必要であろう。日本人の狭い視野でしか問題を見ず、表面的にしか物事を考えられない姿勢からの脱皮が、この改革の前提である。

(つづく)