公開: 2021年4月15日
更新: 2021年6月11日
今、日本の社会を形作っている法体系や各種の制度は、ほとんどが明治時代から第2次世界大戦に負けた昭和20年までに定められたものである。日本社会は、基本的にそれらを見直してこなかった。その代表例が雇用慣行としての「終身雇用」である。日本の教育制度や判例までもが、その縛りの中での改訂に留まっている。
その根底には、日本人の特徴と言われている「変化を嫌う」性質があると言われている。
日本では百数十年前に江戸幕府が倒され、中央集権国家としての明治政府が設立された。明治政府は、列強諸国による内政への干渉を怖れ、国力の強化、つまり軍事強化と、経済発展を第一義とした「富国強兵」を標榜した国民国家づくりにまい進した。そのために、西洋諸国の立憲君主制にならい「大日本帝国憲法」を制定し、それに矛盾しない法律を成文化し、裁判制度も確立した。その法律の大部分は、江戸時代からの慣習を引き継いでいた。江戸時代には、子供達の教育は、ほとんどの人々の場合、その親たちに任されていた。政府であった幕府も、領主であった藩も、ほとんど行政サービスを提供していなかった。藩は、武家社会を維持するための年貢は集めたが、それ以外の税の負担を民に要求しなかった。明治政府は、教育令を定め、江戸時代の寺子屋教育とは変えて、小学校による初等教育の義務化も国家事業とした。
明治時代になると、廃藩置県で藩をなくし、国家の軍隊を維持するための財源や、新しく国民皆兵制度を定め、その兵士人材を養成するための義務教育制度を国内で展開するための財源、政府の行政機関を維持するための財源、さらに国内の産業を育成するためのさまざまな投資に必要な財源を賄うため、企業や一般の国民からも税を徴収する制度が必要となった。さらに、政府は、全ての国民に対して「勤労の義務」思想を浸透させ、工場の労働力として、軍の兵士として、国家のために働く国民を育成するべく、小学校の道徳教育に力を入れた。当時は、綿織物、絹織物、陶磁器などの輸出で外貨を稼ぎだすようになっており、そのような業を生業とした事業者から、税を徴収するようになった。ただし、そのような事業者に雇われて働く一人一人の労働者から税を徴収することも、それらの人々の労働条件を守ることも、行政府はしなかった。
明治中期に入って、国内においても製鉄など、重工業が発展し始めた。製鉄は、江戸時代までの「たたら製鉄」ではなく、近代的な反射炉を使った西洋式製鉄法が導入され、輸入した鉄鉱石やくず鉄から鉄を作る工場が建設された。そして、そのようにして作られた鉄を原料にして、陸軍で使われる鉄砲や大砲、海軍で使われる軍艦などが製造されるようになった。このことは、巨大な工場を作り、その工場で働く、数多くの労働者が必要になったことを意味していた。その労働者達は、親方衆によって集められ、親方衆と契約を結んだ企業が労働力を使い、対価である賃金を親方達に支払っていたのである。しかし、親方衆が税金を納税した記録はない。
このような労働力管理の制度では、生産のための労働力を管理するのは、工場を運営する企業側ではなく、親方衆である。親方衆は、今、自分が契約を結んでいる企業よりも、より高い賃金を支払ってくれる新しい企業が見つかれば、自分の手下を引き連れて、新しい働き場所へ簡単に移動する。このことは、生産設備を所有して生産を行う企業から見れば、折角、生産設備の操作になれた工員たちでも、簡単に他の企業へ移り、新しい工員たちを募集して集め、その人々を教育しなおさなければならないことを意味する。このため、生産する製品の品質と生産性は、しばしば不安定だった。
明治後期になると、日本国内では、初期の官営中心の重工業から、財閥系の企業を中心とした重工業産業への移行が進み、各工場では工員人材の定着が問題になり始めていた。その問題の一つは、賃金の高騰による人件費の増加であった。各企業の工場では、他の企業の工場へと移動した工員グループの穴埋めのために、より良い条件で人材を確保しなければならないと言う、過当競争問題が生まれていたからである。もう一つの問題は、熟練した工員たちの移動によって、彼らに蓄積されていた職人技能が失われ、代替の工員が見つかって、労働力の穴埋めはできても、新しい工員たちを教育し、技術水準を引き上げなければならない問題があった。品質の劣化などの問題が発生して、損害が発生する場合もあれば、生産性の低下で、製造コストが増加したりしたからである。
大正時代に入ると、日本企業、特に財閥系大企業の工場では、そのような労働力の過剰な移動によって生じる問題の発生を防止するため、それまでの「親方を中心とした工員組織」を工場労働力の供給制度として利用するのではなく、大学卒業者等のために整備されていた雇用制度に似せた、工員の「終身雇用」の制度を導入し始めた。それは、義務教育を終えた若者を「社員」として企業が採用し、必要な教育を提供して育成し、一定期間を過ぎた後に正式な「工員」として処遇するやり方(「養成工制度」と呼ばれた)であった。昭和初期になると、この雇用制度が社会全体に定着し、軍備拡張を狙う軍部の方針とも合致したため、日本の国家全体の雇用制度として定着していった。これに伴い、明治時代には、大学を卒業した幹部社員を意味していた「会社員」は、その企業に所属する全ての従業員(正社員)を指す言葉になった。
大正時代から、昭和初期においては、世界中で労働争議が起こり、また、ロシア帝国の滅亡とソビエト連邦の成立によって、マルクスが資本論で主張した、共産主義の波が世界を襲い始めていた。当時、西洋列強諸国においては、この共産主義思想の普及・拡大は、資本主義社会における脅威と捉えられていた。この資本主義と天皇制を否定する共産主義の波に対抗するため、日本の政府と財界は、日本に特有と言える「企業別労働組合」を組織化させ、最低賃金や労働条件の保護について労使で協議する制度を作った。この場合、「終身雇用制」が確立していた日本社会では、労働力の企業間での流動性が極端に少なく、企業間をまたがる職制別の労働組合組織を形成する必要が低かったため、企業内組合の制度確立を選択した。
終身雇用制が社会に定着すると、労働者の処遇に関する問題が出てきた。知識労働を主体とした大学卒業者等のホワイトカラーの場合、知識や経験が蓄積されると、より高度な経営的任務を遂行できる能力が高まる。ヨーロッパの役人制度を真似た日本の役人社会でも、ほぼ同じような処遇が可能であるため、「年功」に基づく処遇に大きな問題は発生しなかった。しかし、当初、工員として採用した従業員も、「年功」に基づく処遇をすることになると問題が生じた。勤務年数の長くなった、当初は工員として採用した社員を、大学を卒業した社員と同じように処遇しなければならないからである。それを可能とするためには、工員として採用した社員にも、大学卒業者と同じような「広い知識」を身につけさせなければならないからである。そのため、各企業では、社員の必要性に合わせて、企業内で社員を教育する教育プログラムを整備しなければならなくなった。
その重要な役割を担ったのが、各企業の人事部であった。人事部は、その企業で将来必要となる人材を特定し、そのような人材に必要な教育プログラムを作り、その教育プログラムを実施するための講師を企業の内外から集め、対象者を選んで、教育を行う。そのような教育は、企業側の人材ニーズと社員一人一人の能力や人生の目標などとの整合をとることが必要なため、人事部は、社員個人個人の個人データを集積しなければならなくなった。このことが、結果として、各企業の人事部の権限を大幅に増大させた原因となった。これは、欧米の企業では、ほとんどの人事権を従業員の直属の上司が持つ制度を採用しているのとは対照的な、「企業と従業員との関係」の極端な違いとなった。欧米の企業では、従業員個人の教育(投資)は、基本的に個々の従業員の問題とされるからである。
「終身雇用」によって、日本社会では米国社会などとは違って、個々の労働者は、自分の専門だけを仕事にすることはできなくなった。一生、採用された企業で働くことが前提とされるため、企業に必要な業務を、採用時の専門とは関係なく、遂行することが求められる。それによって、従業員が属している組織や企業の主たる業務が変わって、自分の専門が必要でなくなったとしても、従業員はその企業に属し続け、働き続けることができる。つまり、失業のリスクは、低減される。しかし、従業員に割り当てられる仕事が、常に従業員が「やりたい仕事」「自分の適正が活きる仕事」とは限らなくなる。ただ、どのような仕事に就いていても、企業から労働者に支払われる賃金は、「年功制」によって、自分と同時期に採用された社員と同じような額が保障される。このことは全く同じ仕事をしていても、入社してからの期間が短い社員には、低い賃金しか支払われないと言う別の矛盾を生み出した。
1945年8月、大日本帝国はポツダム宣言を受け入れて、連合国軍に対して無条件降伏した。これにより、明治時代に定められた大日本帝国憲法に規定された「天皇が主権を担う国家」から、新しい日本国は、「国民が主権を担う国家」を標榜した日本国憲法を基本とした民主主義国「日本」に変身した。敗戦に伴い、当時日本を統治した占領軍よって、軍部は解体され、財閥も解体された。新憲法の制定に合わせて、それまでの日本の法律は、ことごとく見直され、修正が加えられた。それでも、江戸時代からの慣習に基づいていた法律を、完全に新憲法の民主主義思想に合わせて変えることは、簡単にはできなかった。結局は、それまでの国内法の字句を修正して、新憲法と表面的に矛盾しないようにすることしかできなかったのである。さらに日本国憲法では、国民による勤労を、国民の義務と標榜した。この思想は、明治の「富国強兵」政策でも、二宮尊徳の報徳思想に基づき、澁澤栄一らによって道徳の前提とされていたが、日本国憲法では、それが前面に出され、権利であり義務であるとして、記述された。
民法や地方自治法などは、特に量も多く、一貫した思想に基づいて修正を加えることが難しい法律の例であった。そのため、明治時代からの法律が、ほとんどそのまま、言葉だけを新しく変えただけで、新法となった。それは、地方自治を前面に出した新憲法の下でも、法的には地方自治体の行政サービスは、中央集権的な明治時代の法律の思想で書かれた法律に基づいて実施されることになったことを意味していた。敗戦直後の時代には、生活している人々は戦前の教育を受けていた人々で、地方公共団体の職員も、戦前から役場の役人として勤めていた人々であったため、短期的に見れば、大きな問題は起きなかった。
企業における状況も同じであった。企業における従業員と雇用主である企業との関係、即ち雇用関係は、戦前とほとんど変わらなかった。財閥は解体されたが、個々の企業はほとんどそのまま残って業務を続けた。例えば、軍用機を製造していた財閥系の中島飛行機は、いくつかの企業に解体され、自動車や産業用製造機械を製造する企業などに変身した。それでも、多くの従業員は、そのまま社員として残り、仕事を続けた。現在は、日産自動車の一部門になっているプリンス自動車もそのように解体され、経営者を変えて生き残った中島飛行機の生き残りである。
企業側は、経営者と企業形態を変えて、ほぼそのまま生き残った。そして、企業内の制度もほぼそのまま生き残った。特に、終身雇用制度は、労働法との関係も強く、簡単には変えられないと言う問題があった。また、労働者側を考えてみても、戦後の社会で労働力になる人々は、東南アジアや中国の戦場から帰還した、元兵士達が大部分であった。そのため、企業はそれらの人材を再教育し、工場の工員として働かせた。元軍人の中には、一部の会計業務に知識のあった主計官などもいて、それらの人々は戦後の企業では、財務部門の責任者として専門的な職務を遂行した。
米国社会では、同じ時期に戦場から帰還した兵士達に対して、大学での教育を受けられる「教育助成クーポン券」を配布し、高等教育を受けることを奨励した。このことが、第2次世界大戦後の米国社会の変革を生み出す原動力になったと、現在では評価されている。当時の日本社会には、そこまでの豊かさがなかったのであろう。産業界には労働力不足問題があり、帰還した元兵士達には仕事不足問題があった。この国力の差が、1970年代の両国の経済発展の基礎を形作った。しかし、1960年代末の泥沼のベトナム戦争で、次の世代の米国国民と国家経済は疲弊し、1970年代後半からの日本の追い上げを許し、1980年代末に国民は大国の没落を経験することになった。
1960年頃、日本企業の経営を調査に来た米国の研究者は、日本社会において定着していた終身雇用制度を知り、日本社会のこの制度が、産業化の進む世界において、近い将来米国社会にとって脅威となる可能性があることを警告した。それは、終身雇用制度によって、労働力の流動性が低く抑えられ、労働コストの低減を実現できるとともに、従業員に蓄積される経験知によって企業の生産性が向上すると予想されたからであった。1980年代の後半になって、このことは現実となった。1990年頃に発表された野中論文やセンジの組織学習理論は、それを説明していた。
皮肉にも、1960年頃、日本企業の経営者達は、日本社会の急速な経済発展を反映して、終身雇用制を見直し、同一労働同一賃金制導入の検討を始めた。この検討は、当時、被雇用者の待遇を守ろうとして活動していた労働組合などの反対によって、導入の道を絶たれた。終身雇用が前提となっていた当時の日本社会では、同一労働同一賃金は、企業での在籍経験の長い従業員に対して、賃金の切り下げにつながると認識されたからであった。政府も、労働者による反対運動を怖れて、労働法の改正を断念したのである。結果的に見れば、この選択は、1990年代初めまでの日本社会に繁栄をもたらしたと言える。つまり、20世紀型の産業化社会においては、終身雇用制は、大成功であったと言える。このことは、19世紀のイギリス社会において、進歩的な経営者であったロバート・オーウェンなどによって予想され、実験されていたことでもあった。
しかし、日本社会の硬直化は、現代的な終身雇用が日本社会に深く根付いた1960年代に始まったのである。この頃から、日本の労働法は、終身雇用が暗黙の前提となっていった。また、社会全体もそれを当然のこととして考えるようになった。大学教育でも、仕事に必要な具体的な知識の獲得は、企業の社内教育を前提とするようになった。大学は、より多くの学生を大企業へと就職させることを目標にして、大企業の実施する就職試験や面接で学生がより高い評価を受けられるような教育を実施したり、指導をしたりするようになっていった。それは、別の言い方をすれば、個人個人の能力や個性を発揮するよりも、多数ができることを、同じようにできるようにすること、周囲の人々と同じように考えられる人材を育てることに重点が置かれていたことを意味する。
法制度においても、日本社会においては、特に労働法や教育関連法などの面で、終身雇用制度は1960年代から2000年代にかけて、大きな影響をもたらした。専門家の養成を目的とした大学教育においては、大学の教育プログラムの構成や教員人材の資格認定について、文部省は社会の基盤として終身雇用制を前提とした労働者育成と言う観点から、ものごとを考えるようになった。つまり、時代時代で変化する先端的技術などに関する知識の教育よりも、変化の少ない基礎的な知識の教育や、勤勉性に重点を置いた教育内容を重視するようになっていった。これは、産業界で仕事に従事する労働者に対する個別の技術知識に関する教育は、各企業における社内教育を中心に、労働者個人個人の努力による学習が、社会的な合意になりつつあったからであった。
ところが、1980年代の半ば頃から、技術進歩の速度が速くなり、まず、労働者個人個人の努力に頼った学習では、しっかりとした知識の獲得ができなくなっていった。技術の進歩は、積み重ねであり、断続的ではなく、前提となる知識なしに、勤勉と忍耐で新技術を学ぶことは容易でない。終身雇用制を前提とした日本社会では、従業員が大学などでの高等教育で獲得した専門知識と、従事している仕事に必要な専門の基礎知識が一致しないことがある。つまり、産業界で働く技術者の中に、その業務に直接関係した専門教育を受けた人間は、現実には少ない例が多くなっている。特に、技術的には新分野である情報技術分野の場合、もともと大学でその専門を学んだ人はほとんどいなかったのである。このことは、1960年代の米国社会にも共通した問題であった。しかし、米国社会では、社会の変化に合わせて、高等教育の中身を変えていったのであった。
1960年代に確立した教育プログラムを基本的に変更しなかった日本社会では、1990年代になると、情報関連分野では時代に適合した人材を社会的に供給する仕組みが機能しなくなっていた。さらに、終身雇用制の縛りは、日本企業の人事政策の選択肢を狭め始めていた。経済のバブル崩壊によって大打撃を受けた日本の産業界は、円高によって世界的に見て高コスト化した人件費によって、経営的に追い詰められつつあった。団塊の世代が中間管理職の地位にあり、その労働コストを重荷に感じ始めていたのである。しかし、1960年代から裁判所が積み重ねてきた終身雇用制を前提とした判例は、社員の解雇を簡単には認めなかったため、企業側が選択できる道は、新規採用規模の縮小しかなかった。しかし、それは長期的に考えれば、将来の人材を失う選択であった。さらに言えば、団塊の世代の子供達に対して、就職の機会を狭め、将来の国を担う大量の人材を正社員として雇用せず、放置するという、将来の日本社会における社会的問題を生み出す原因となった。
終身雇用制度では、企業は一度採用した正規社員を解雇することが現実的に不可能である。従って、企業が簡単に採用できる選択肢は、新規採用を減らすことである。全ての企業がそのような選択をすれば、第2次ベビーブーム世代で増大していた大学卒業見込みの学生達に与えられる就職先候補は、極端に少なくなり、その多くが「就職先が決まらずに卒業」を余儀なくされ、一時的に非正規雇用として働かざるを得なくなると言う問題があった。結果として、日本社会は不安定な非正規雇用に悩む状態の若者を急増させた。さらに、労働コストの膨張に悩む企業では、正社員を解雇することができないことから、社員に仕事を与えず、「窓際社員」として雇用を継続するが、その社員の自主退職を促す人事施策を導入する例も出た。そこで、正規社員としての採用ができなかった大学卒業者達を集め、大手企業向けに派遣社員として送り込む、「出向」社員を専門に雇用する、人材派遣業が、日本社会に生まれ、短期的な解決策として、広まった。
この人材派遣業が普及した背景には、それまで労働法によって禁じられていた派遣業の中に、情報系産業におけるSE職種などが、専門的な業務のひとつとして認められるような法改正が、産業界から政府への強い要望によって、行われたことがあった。このことは、政府にとっても、大学を卒業した学生の就職率が低下し続けていた問題を、余剰な労働力を人材派遣業界に吸収させることで、見かけ上は、解決したかのように見せられると言う、短期的な視点からの利点もあった。しかし、終身雇用制を前提としていた日本社会では、人材派遣業では、労働者の技術的知識の蓄積は難しく、長期的には国力を弱める結果になる。1990年代の中頃以降に大学を卒業した人々の多くが、人材派遣業を主たる業務とする企業に入社し、その人々が卒業して25年以上が経過した現在、彼らの多くは、今でも非正規の身分で働くことを余儀なくされている。その人々は、将来、厚生年金制度や企業年金制度の恩恵を受けられず、生活のためには国からの福祉を頼りにせざるをえない。それは、社会的な困窮者になってゆくことを意味する。このことは、将来の社会で働く人々の税負担が過剰になるであろうことを予測させるとともに、その次の世代を担う、現在の非正規社員の子供達をも、不十分な教育によって相対的貧困に陥れる可能性が高い。