公開: 2021年10月28日
更新: 2022年1月24日
みずほ銀行に止まらず、現代の日本社会では、専門家人材の育成と雇用に、大きな問題を抱えている。それは、明治以来の日本社会が直面してきた、経済発展のための専門家人材の安定的な養成と、人材の確保のための制度が未発達であったことに由来する。1945年の第2次世界大戦の終了までに、日本社会は有事のための人材供給制度と、人材の過剰な流動性を抑える政策を採用し、戦争の遂行に必要な物資の生産を行っていた。
第2次世界大戦が終わり、経済の復興を始めた日本社会は、この戦時下で導入された雇用制度を変えることをしなかった。つまり、終身雇用制である。このことが、幸いして、技術進歩の速度が遅かった1980年代中頃までの世界では、終身雇用制は、労働力の過剰な流動性を抑えたために、日本経済の発展に大きく貢献した。しかし、その後のコンピュータ化に代表される技術の大幅な進歩は、全ての分野において、その進歩の速度を著しく速めた。
この技術進歩の加速度が増加した結果、終身雇用で雇用されている労働力を、新しく必要になった新分野に展開するためには、労働者を再教育し、再展開することが必要になる。しかし、その再教育を社内で実施するための教員人材を確保することが難しくなっていたのである。そのため、再展開された労働力の専門性は低く、企業側のニーズを満たすことはできなかった。このことが、日本社会における労働生産性を押し下げ、日本経済を停滞させる原因の一つとなった。、
1) 日本の人材育成と雇用
日本社会における大企業の雇用制度の特徴は、昭和初期に導入が始まった、新入社員一括採用、終身雇用、年功序列、定年制などによって特徴づけられる。新入社員一括採用は、毎年、4月1日付けで新入社員を一括採用する制度である。学歴に応じて、職種、身分、給与などの違いはあるものの、同じ教育課程を修了した人材に対する給与は、基本的に同一である。この入社の時点で、社内のどの部署の職務を担当するのかは、明確には決まっていない。新入社員は、それぞれの学歴に対応した社内教育・訓練を一定期間、受けるのが一般的である。これは、入社時の雇用契約が、米国社会などのように職務を指定した方式ではないため、新入社員の最終教育課程で習得した専門知識の水準が同じではないことから来ている。例えば、IT系の技術職(プログラミングを主たる業務とする人材)の場合、4年制大学の卒業者でも、文学部、経済・経営系学部、工学系学部、理学・数学系学部の出身者達が混じり合っているのが普通である。ほとんどの新入社員は、プログラミングをほとんど学んでいない。そのような様々な専門を学んで卒業してきた新入社員に対して、企業は、職務の遂行に必要とされる最低限の知識を習得させなければならない。そのために、かなりの期間、社内研修によって、技術的な知識の教育を行い、さらに必要な基本的技能の訓練を実施する。この長期に渡る新入社員教育を通じて、各企業の人事は、各新入社員の適正や能力を見極め、配属させる部署を決定する。新入社員が現場へ配属となるのは、概ね入社後6ヶ月から1年程度を経過した後になる。
現場に配属となった新入社員は、約1年程度の現場教育・訓練を受ける。これは、俗に言う「オン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)」である。仕事に従事しながら、仕事の遂行に必要な技術的(専門)知識や、社会人としてできなければならない一般的(非専門)技能を学ぶのである。専門知識に関しては、先輩社員からも教えてもらえない新しい知識もあるため、自分自身の努力で学ばなけれはならないことも少なくない。特に、技術系の職種では、知識の陳腐化が早いため、先輩社員の全く知らない内容に遭遇する例は多い。このようなOJTの期間を終えると、その社員は「一人前」の社員として、上司から与えられる仕事に責任を持って従事することとなる。OJTの期間中に、人事が期待した成果を達成できなかった新入社員は、「適性が不足していた」として、他の職務に配置転換となる例が多い。ここまで、採用試験から「一人前の社員」になるまでの間、人材の育成に責任を持つのは、「人事」である。これ以降、人事が社員個人の育成や昇進等に関わるのは、部署をまたぐ所属の変更時や、非管理職から管理職への昇進時、さらに同期社員の中に取締役など経営幹部に昇進する者が出現し、本人の処遇を考える必要が出た時である。このように、日本社会では、第2次世界大戦が始まる前から、社員は「入社から定年退職まで、一貫して同じ会社に勤務する」ことを前提とした、一般的に「終身雇用」と呼ばれる雇用制度を採用してきた。このため、専門性が高い、特殊な業務を担当する社員を除いて、ほぼ全ての社員が、終身雇用の対象となっている。
第2次世界大戦が終わって、日本経済が復興期に入った時、この「終身雇用制」を継続すべきか、または諸外国のような同一労働同一賃金制へと移行すべきかどうかが、政府、議会、産業界で議論された。しかし、労働組合からの強い反対意見で、同一労働同一賃金制の導入は見送られ、戦前からの「終身雇用制」は、維持されることとなった。労働団体は、同一労働同一賃金の導入によって、労働者の権利が弱まることや、実質的に賃金が切り下げになることを恐れたため、反対をしたと言われている。当時、産業界の一部で懸念されていた問題が、現在、我々が言う「同一労働同一賃金」の問題であった。産業界は、その導入に前向きであったと報告されている。終身雇用が普通であった時代に、同一労働同一賃金を導入すると、同じ職務を遂行している先輩社員と後輩社員の給与は、ほぼ同等となり、先輩社員の目から見ると、「賃下げ」に見えるからである。また、最終学歴の異なる2人を、同じ職務に就かせる場合でも、高学歴の者の目から見ると、「賃下げ」に見える。このような問題を重視しため、労働組合は、この制度の導入に強く反対したと言われている。しかし、終身雇用を採用している日本企業では、社員の年齢が上がると、その社員に対する給与も上がるような制度設計になっている。このため、社員の年齢が高くなると、人件費は増大することになる。当時、社員の平均年齢が低かったために、問題はなかったが、時と共に、この問題は各社の収益の点で経営を圧迫するようになる。そのため、各社は「定年制」を導入し、55歳に達した社員を退職させるようにした。しかし、平均寿命の高まりに伴って、定年の年齢は、60歳、65歳と少しずつ引き上げられた。それに伴い、55歳以上の社員に対して、待遇を変えて、管理職の職を解き、賃金を引き下げる制度が導入されている例も多い。
上に述べた日本の雇用制度は、世界的に見れば、極めて稀な制度である。特に、新入社員一括採用は、新入社員の最終教育課程で受けた教育と、就職後の職務を直接的に関係付けない点で特殊である。新入社員の卒業した教育機関、教育課程の専門性と、従事する職務に直接的な関係がない場合、職務の遂行に必要な専門知識の修得は、企業が責任を持って支援しなければならない。明治・大正の時代の社会であれば、特に専門的な教育を受け、専門知識がなくても、就職後にそれを教え、専門家として育成することも可能であった。しかし、第2次世界大戦後の世界では、各専門分野の発展は目覚しく、当該専門分野の基礎知識がなければ、専門的な人材として職務に従事することは難しくなっている。このことが、現代の日本社会において、企業の人材が世界的に見ると専門性が低く、グローバルな競争に勝てない原因の一つになっている。それでも、昭和40年代までは、社内教育制度を充実させることで、グローバルな競争に対応できる人材を育成することができた。それは、当時の日本企業にとって、競争環境は現在ほど 厳しいものではなかったため、人材育成にかかる時間と費用を、企業が投入できたからであった。現在では、日本の企業には、それほどの体力は残っていない。新入社員が、即戦力でなければ、企業は競争に生き残れない。そのため、最近では、企業の人事は、学生に「即戦力」の能力を求めるようになっている。しかし、企業側にも、「何が即戦力なのか」を定義し、それを判定するする能力もない。人事の担当者も、専門的な知識を持っていないからである。
2) みずほ銀行の問題
みずほ銀行は、旧第一勧業銀行、旧富士銀行、そして旧日本興業銀行の3行が対等合併して設立されたメガバンクであった。他のメガバンクと同じように、現在のみずほ銀行を構成するそれぞれの銀行も、1990年代、不良債権処理に悩まされていた。土地価格の低下と、株価の低迷で、不良資産処理は「泥沼」に入り込んでいた。それらの旧3銀行にとって、銀行経営の最大の課題は、組織の規模を大きくし、資本を巨大にして、不良債権を処理して、銀行として生き残ることであった。経済成長を復活させ、景気回復を狙っていた政府もそれを望んでいた。しかし、巨大企業の合併は、簡単ではない。企業は組織が大規模になればなるほど、働く人々の數が増え、それを取り巻く人々の数も膨れ上がる。みずほ銀行の場合、旧3行に勤務する行員の数だけでも、第一勧業銀行約14,700人、富士銀行約12,900人、日本興業銀行約6,400(連結)と、30,000人を超える。それほどの数の人々が構成し、それぞれの組織の歴史を通して、組織に属していた人々が作り上げてきたそれぞれの組織を解体して、3万人を超える新組織を作り上げることは、短期間にはできない。さらに、それぞれの銀行に特有な仕事のやり方や、組織の作り方、人材の育て方があって、それらを統一して、一元化しなければならない。それを数年間という短期間に終わらせることは不可能であった。その問題に直面して、みずほ銀行は、対等合併という手法を採用し、それぞれの組織を温存させる選択をした。それは、巨大な組織の下部組織となった旧3行の組織に属してきた人々にとっては、「受け入れやすい」選択肢であったが、多額の不良債権を抱えて、その再生をやり遂げなければならない、新組織全体を考えると、「安易に過ぎる」選択であった。
みずほ銀行の旧3行の組織に限らず、日本社会の多くの組織では、日本型の雇用制度が採用されているため、日本社会で育成される人材には、多くの点で共通する問題が見られる。その1つは、自分が所属する組織についての深い知識・経験を持っているが、業界全体、世界の同業者全体がどのような問題・課題に直面しているかについての知識や、その問題・課題に対する専門的な問題解決の経験が不足している点である。これは、日本社会で育成された人材は、自分の所属している組織や、自分達が所属している日本の産業界については、自分たちの業務経験から、様々な知識を得ているが、よりグローバルな視点から、組織や業界の将来を考える視野を持っていないからである。彼らには、自分の所属している組織の中での成功のために努力することに重点があり、知識の一般化に力を入れることができないのである。自分たちのキャリアは、組織の内側だけで積み上げれば良いからである。この点は、特に米国社会のように労働の流動性の高い社会で、生き続けなければならない人々が、知識の一般化に努力し、企業間を移動して、多くの企業組織に共通する問題の解決に挑戦するための知識や経験の蓄積に努力する態度とは、大きく違っている。そのような狭く、固定的な人間関係の組織を複数集めて、新しい、より大きな組織を作る時、その新しい組織のリーダーに適した人材を養成する仕組みは、これまでの日本社会にはない。偶然に、その地位に着いた人間が、そのような才能と運に恵まれていれば、合併は成功するが、その条件は、現実にはほとんど成り立たない。失敗する可能性が高いのである。
みずほ銀行の合併では、旧3行を取りまとめる役割は、最初、最も組織の規模が大きかった旧第一勧業銀行の頭取が就任することになった。これは、組織の視点からは順当な人事といえるが、その人材が適任であったということではない。さらに言えば、みずほ銀行のオンラインシステム全体を統括する責任者であるCIOに、その元第一勧業銀行頭取を就任させることは、その職務と権限・責任を考えると、適切な人事であったとは、考えられない。それは、銀行の頭取は、銀行業務全体を取り仕切る人材であり、情報システムやその運用に関する知識があるとは考えられないからである。巨大3ベンダーの責任者からの報告を聞いて、その内容を理解し、適切な指示を出すためには、情報システムやソフトウェア開発等について、相当な知識と経験が要求されるはずである。それは、大学で法学や経済学を学び、銀行の支店で銀行業務を経験し、銀行組織の取締役として、銀行組織の運営に従事した人材には、縁の薄い知識分野だからである。日本社会の組織では、これは一般的な問題と言える。発注側の責任者や取締役が、自分達が発注すべき業務や物品の内容をよく理解せずに、発注するのである。受注側の担当者は、少なくともその分野の専門家である。この二人の間に、双方向のコミュニケーションを成り立たせることは容易ではない。これは、日本企業では、大学卒業生の一括採用、終身雇用、年功序列の制度を採用しているため、その部署の責任者や取締役は、ジョブローテーションで、一時的にその職務についているだけで、専門知識があるからではない。特に、銀行組織では、情報系の職務に従事する人材でも、そのほとんどは、大学で法学や経済学を学んだ人材で、数年後には情報系の部署から本店や支店の勤務に戻る人々である。それらの人々が、情報系の基礎知識を本格的に学ぶ動機は、ほとんどない。みずほ銀行でもこのような状態があったと考えられる。
さらに、みずほ銀行の条件を悪くしたのが、旧3行を支援していたベンダーが、富士通、IBM、日立と、それぞれが独自の強みと弱みを持つ、巨大コンピュータメーカだったことである。これらのベンダーの旧3行担当者は、たとえ同じ問題が示されても、それぞれの企業の得意分野を活かした解決策を提案してくる。それを受ける旧3行の現場の担当者は、本来であれば、それらの提案を吟味し、最も適していると評価できる解決策を作り出さなければならない。単にベンダーの提案を受け入れるだけでなく、3つのベンダーの提案に基づき、より良い解決策にまとめあげなければならない。そのためには、ベンダーからの提案の内容を理解し、その良い点と悪い点を調べ、3つのベンダーの案を横並びにして比較し、自分達が解決しなけれはせならない問題の特性を考慮した上で、最適な案を設計しなければならない。そのためには、銀行の情報システム担当者と言えども、ベンダーの技術者と「渡り合える」知識と経験が要求される。日本社会では、ユーザ企業にそのような人材がいることはほとんどない。そのため、ベンダーからの提案をそのまま「丸呑み」する例が多い。銀行内部の人事制度が、昭和初期からほとんど見直されていないため、当該企業に必要な専門知識を持った人材を、必要な部門での職務に就かせることができないのである。これは、就職先を探している学生の視点からもいえる。情報系の知識を学んだ学生は、終身雇用が前提の日本社会で、銀行に就職すれば、そのキャリアのほとんどを銀行業務の習得に充てなければならない。自分の強みを発揮できる部署で働くことは、ほとんどできないのである。それは、多くの学生にとっては、リスクが高すぎる選択である。
3) 米国のIT系人材育成と雇用
米国に代表される多くの社会では、日本で「ジョブ型雇用」と呼ばれる制度を採用している。企業は、その業務の遂行に必要な人材を特定し、そのような人材を排出する大学や、そのような人材が所属している学会などの人材集団に、人材募集の書類を送付する。学生や既卒者で仕事を探している人材は、そのようにして公開される資料を閲覧し、それが適切であると考えれば、学会などの事務局へ、仲介を依頼する。学生の場合は、一般的には、入社を希望する企業の管理者に対して、長期の休業期間(夏休みなど)を利用したインターンシップの受け入れ依頼を、直接送付する。「インターンシップ受け入れ依頼」を受け取った、企業の管理職は、その学生の習得単位や成績、さらに過去のインターンシップの評価などを見た上で、受け入れられるかどうかを決定する。インターンシップは、無給であるため、受け入れ側に大きな負担はないが、受け入れる場合に、どのような仕事を担当させるかを決めなければならない。さらに、受け入れた学生の能力が期待していた水準より低い場合は、別の対応を迫られる。インターンシップ中に、給与を支払う必要はないが、生活費の支援をする企業は多い。ただし、住居地から勤務地までへの移動にかかる費用は、学生が自分で支払わなければならない。このインターンシップ制を利用して、一時的に仕事をした経験のある学生の中から、有能と評価した学生を、社員として受け入れるやり方は、広く行われている。この場合、学生と言っても、仕事の内容や仕事場の環境についても事前に知識があるので、「即戦力」の人材であり、雇用側から見れば、採用の失敗リスクも小さい。
米国社会の場合、情報系の技術者は、専門職であり、一般に「エクゼンプト」と呼ばれる待遇の人々である。「エクゼンプト」は、日本の終身雇用に近い待遇であり、一般の工場労働者のような「レイオフ」の対象にはならない。さらに、米国社会には「定年制」がないので、本人が希望する限り、死ぬまで「解雇を通告すること」はできない。ただし、これは企業内で、当人が従事している専門的な職務が、存在する限りのことであり、職場が無くなったり、企業の業務が継続できなくなったり、組織が消滅する場合は、別である。この点は、日本企業の場合、過去の判例で、ほとんど解雇が認められていないこととは、違いがある。ただ、多くの場合、企業の業績が悪化すると、その企業は人件費を節減する目的で、「退職奨励金」を出して退職希望者を募集するので、専門技術者の多くは、その時点で企業を去る選択をする。「エクゼンプト」制で雇用されている従業員は、期待される成果に応じて給与が決定される。期待される成果が困難なものであれば、高い給与が約束される。これは、1年契約であり、1年後に、現実の成果が期待通りであったかどうかが、従業員とその直属の上司との間で議論される。成果が期待通りでなければ、次年度の仕事は、より期待値の低い仕事になり、給与も低くなる。日本社会のように、ベースアップのような制度はない。基本的には、遂行する職務に対して、最低賃金が決まっているので、最悪でもそれは保証されている。また、最高賃金も決まっているので、それに達している従業員は、それ以上に給与が上がることはない。従業員には、昇進をするか、他のより賃金の高い仕事に従事することを選択するかの、どちらかである。
米国社会の雇用制度が、「ジョブ型」と言われるのは、全ての「エクゼンプト」制従業員に対して、その従業員が従事すべき職務内容が、「職務記述書」(job description)に記載されているからである。この職務記述書には、従事すべき職務の内容だけでなく、その職務を遂行するために必要な専門知識(大学で習得していなければならない単位)や職務経験とその長さなども記されている。ここには、インターンシップの経験や、他社での仕事の経験が実務の経験期間として記載される。また、その職に就くことを希望する人のために、最低賃金や最高賃金(給与レンジと呼ばれる)も記載される。採用を決定するのは、従業員の採用が決まった時に、その人の直属の上長になる管理者である。その管理者が、その職に就くことを希望している候補者の応募書類を精査し、その人材が大学等で学んだ知識が、職務の遂行に十分なものかどうかを判断し、必要であれば面接を実施して、採用・不採用の決定をする。人材を採用できなければ、職務記述書の内容を変更して、同じ過程を繰り返す。特に、職務内容を変更できない場合には、給与レンジの記述を変える必要がある。それは、似たような職に対して他社ではどれくらいの給与を出すかの、労働市場での需要と供給の関係で決まるからである。
日本の社会では、「大学教育で取得した単位では知識を持っているかどうかはわからない」と考える人もいるかもしれない。米国社会では、大学が単位の履修を希望する学生に対して、どの水準に到達した学生に対して単位を出すかの基準を、厳密に審査する制度がある。それは、「アクレディテーション」制度と呼ばれている。これは、ある大学の特定の学部学科で、特定の単位を取得した学生の中で、最も低い達成度で単位を与えられた学生が、どの知識水準にあったかを調べ、当該学部学科の単位が信頼できるかどうかを審査する制度である。このアクレディテーションの審査に通っていない大学の学部学科の卒業生は、当該分野の「専門家」とは、社会は認めないのである。つまり、職務記述書に書かれている職務の遂行に必要な専門知識の内容は、アクレディテーションの審査に合格した大学の学部学科で専門教育を受けたことを要求している。このアクレディテーションの審査は、その専門分野の学会等が、大学教員と実務に従事している専門家から構成される審査委員会を作り、審査を行わせて決定する。その審査では、教育カリキュラム、教員の経歴、単位認定のための試験の問題、学生が提出したレポートや解答、学生の講義への出席状況などが精査される。このアクレディテーション制度は、日本社会への導入が試みられたが、大学関係者の反対もあり、また、文部科学省は「大学基準協会の審査」を優先しているため、現段階では普及していない。
4) 日本の人材育成と雇用の問題点
終身雇用制に基づく雇用制度を採用し、高等教育に対してアクレディテーション制度を適用していない国家は、全世界でも日本が唯一である。特に、アクレディテーション制度を、大学教育に適用していない国家はほとんどない。それは、国際的な高等教育に関するワシントン条約があるからである。ワシントン条約は、高等教育を受けた人材について、ある人材がどの国のどの大学で学んだかに関係なく、その習得単位を調べることで、当該人材の持つ専門知識が評価できるようにしたものである。例えば、ソフトウェア技術者Aが、X国のZ大学で、「ソフトウェア工学を学んだ」と述べている場合、Y国の企業Bや組織Cであっても、 X国のZ大学で学んだことが分かれば、本当に必要な「ソフトウェア工学の基礎知識に関する教育を受けた」かどうかは、X国のZ大学の教育プログラムを調べれば、判定できるのである。このことは、世界規模での人材の活用が可能になることを意味する。日本社会では、同じ国内であるにも関わらず、どの大学のどの学部学科で学んだかを調べなければ、どの程度の専門知識を習得しているのかの判断ができない。このことは、専門家人材を獲得しようとしている企業にとっては、問題になる。必要な時、選考対象者一人一人の専門知識を調べなければならなくなるからである。日本で普通、このことが問題にならないのは、大学卒業見込みの学生を、学部学科を問わずに、一括採用する習慣が一般的だからである。職務遂行に必要な知識は、入社後の社内教育で習得させることが暗黙の了解になっているからである。
しかし、経済のグローバル化が進展し、企業間の競争は国際化している。そのような状況で、新入社員を基礎から教育し直すことは、そのコストを考えると、経済合理性がない。海外の企業では、新入社員でも社内教育なしに業務を遂行させることができるからである。新入社員でも、大学を卒業したばかりの社員は、普通、入社前の長期インターンシップで、業務を遂行した経験があり、基礎的な知識だけでなく、実務的なて知識も持っていることが多い。それと比較すると、日本の新入社員は、実務の経験が乏しく、大学での専門教育も業務と直接関係のない分野であることもしばしばで、専門分野では、すぐに業務を遂行させられる人材はほとんどいない。これでは、新しく採用した人材が、独り立ちして働けるようになるまで、数年の時間が必要となり、人件費の支出と、仕事の成果との間に負の関係しか成り立たない。これでは、日本の企業が諸外国の企業と競争しようとする時、大変不利である。このことは、日本国内でも、20年ほど前から指摘されており、問題視されていた。しかし、IT系を例にとれば、その人材を供給する大学に、情報系の大学、学部・学科が少なく、産業界が必要としている人材を供給できない。そのため、企業側は、学部学科の専門を問わず、大学の名前で候補者を絞り、入社後の新入社員教育の歩留まりを、可能な限り良くしようとしている。ところが、最近の技術の進歩は著しく、偏差値の高い大学の卒業生だからと言って、簡単に専門知識を教えられるとは限らない。さらに、社内教育で専門知識を教えている間にも、専門知識は進化し続ける傾向が強くなっており、新入社員が、第一線で働き始めようとする頃には、教えられた技術は「陳腐化」し初めている。これでは、外国の労働力との競争に勝ち目はない。
日本社会の終身雇用制度は、特定の組織でその組織の経営層になる人材を育成する制度としては、成熟した制度と言える。その組織の文化や風土、そして働く人々をよく理解した人材を育成できるからである。米国社会の大企業でも、1970年代の終わり頃まで、企業の経営者を育成するために、似たような制度を持っていた。しかし、1980年代に米国経済の低迷が始まり、米国企業の競争力が低下し始めてから、米国企業では、「専門家」としてMBAの学位を取得している企業経営者を採用し、育成する制度に変わっていった。これは、経済のグローバル化、企業経営の複雑化・高度化、技術革新の速さの増大に、従来型の養成制度で育成された人材では、企業統治ができなくなったからであった。企業の経営者は、ビジネス・スクールで専門的な経営を学んだ、経営の専門家の手に委ねられるようになった。これには、企業内からの反発も強かったが、企業の業績を重要視する投資家達の評価が高く、結果的に定着した。これに対して、日本社会では、今でも、長期にわたってその企業に勤務する人材の中から、企業を統治する人材が選ばれる傾向が強い。さらに、 創業家に繋がる人材が、その企業を統治する役職に就く例も、少なくない。日本を代表するトヨタのような大企業でも、資本家と経営者の分離は、できていない。これは、日本社会がそれを「良いこと」「あるべき姿」と考えているからである。しかし、グローバルな経済環境では、そのような日本的な価値観は、通用しない。この「日本問題」は、みずほ銀行のシステム障害にも大きな影響を与えている。
日本社会の終身雇用制度が、より大きな影響を与えているのは、専門技術者の育成と雇用においてである。元々、大学等の高等教育で学んだ専門と、社会に出てから従事する仕事との関連が薄い日本社会では、一人の人材の評価を、その人材の専門的な知識や、高等教育で学んだ専門分野における業績で評価するのではなく、その人物が所属する組織の格付けと、その人物に与えられている組織内での職位に基づいて評価する慣習が根付いている。つまり、大企業と呼ばれる、東京証券取引所1部上場企業で、課長や部長、取締役であるのか、そうでないのか、などで、その人、個人に対する対応が変化する。そのため、小規模な企業で、専門家としてその道を極めることは、特定の個人としては、一般的には最善の選択とは言えない。このため、個人を雇用する組織も、雇用している個人の組織内での就業年限に従って、職位を変える(上げる)人事政策をとっていることが多い。つまり、長く勤めている従業員を高い職位に昇進させるようにする。これが、年功序列の仕組みとなって定着している。その場合、優秀な専門技術者であっても、課長、部長と昇進の階段を上ることを望み、「専門家として生きる」のではなく、「管理者として生きる」道を選択せざるを得ない。また、日本社会では、職位と給与との関係性が強いため、個人の生活を考えても、専門家として生きることは、不利な点がある。このため、有能で、素質のある人材でも、専門家として生きようとする人の割合は、年齢を重ねるごとに減ってゆく。つまり、高等教育を受けた人には、専門知識を蓄積することが、やり難い背景が存在している。
このことは、人材がもつ専門知識や能力が、労働市場の中で、どれくらいの競争力があるのかとは、全く関係なくその人の給与が決まることを意味している。米国社会のように、職務記述書によって、職務の内容、その職務を遂行するために必要な専門知識や経験などが明確に書かれれば、それによって必要な人材が労働市場にどれだけいて、どの程度の待遇が必要なのかは、ほぼ自動的に決まる。日本の雇用制度では、そのような労働市場が個人の給与に影響する度合いが、特定の専門職をのぞいて、低くなっている。労働市場と人材との間に関係が保たれているのは、日本社会の場合、高等教育を終える直前の、「新入社員の一括選抜の時」だけ、と言える。この基本的な枠組みから外れるのは、いわゆる「非正規雇用」の対象者と、「既卒採用」に対してだけと言える。「既卒採用」は、日本社会に外国籍企業が参入し始めてから、少しずつ増加しているが、今でも一般的な採用形態とは言えない。正規雇用の従業員が、「非正規雇用」になるリスクを受け入れても、「今、勤務している組織を出る」には大きな経済的障害を覚悟しなければならないからである。それほど、日本社会には雇用の流動性がないのである。
5) 日本の銀行と技術者雇用
一般の日本社会と同様に、銀行・金融業界に就職し、仕事をしている人々の多くも、日本の雇用制度で銀行に入行し、与えられた業務に従事している。かつての銀行の場合、従業員の多くは支店に勤務する事務員(ほとんどが女性)であった。男性の行員は、ほとんどが高等教育を受けた、ある意味で特別な待遇の人々(米国社会で言うエクゼンプトに近い)であった。女性の事務員の多くは、一定の年齢に達すると、退職することが慣例であった。それに対して、男性行員は、支店長に昇進し、経営層への階段を登ってゆくが、同じ年度に入行した人々の中から、取締役に昇進する者が出ると、関係する支配下の銀行・金融機関や、当該銀行が出資している関連企業などの取締役・管理職として出向する例が多かった。1960年代の中頃から、銀行にコンピュータが導入され始めると、コンピュータの導入や、その活用に責任を持つ部署に配属される男性行員も出現したが、そのほとんどは、一時的な配属転換で、数年後には、元のキャリアパスに戻るのが、一般的であった。1970年代の中頃には、オンラインシステムが導入され、ソフトウェアの規模が拡大したため、各銀行は、コンピュータシステムの開発や運用を専門とする関係会社を設立し、その社員の一部として行員を送り込んだ。その場合も、銀行から送り込まれる人々の多くは、時限的な出向社員であることが多く、数年間で銀行へ戻る人が多かった。つまり、銀行に入行した人材のほとんどは、コンピュータシステムの業務を一時的に遂行する場合があっても、永続的にその業務に従事する人は、ほとんどいなかった。そのこともあって、コンピュータシステムに関わる銀行の人材は、本格的に情報系の専門知識を学ぶ人はほとんどいなかった。
銀行の人材が、銀行のコンピュータ関係の部署に移動になった時、彼ら彼女らが担当する職務は、主として銀行の新しいコンピュータシステム構築に関する計画策定や、新しいコンピュータシステムの実現を管理する作業、開発が完了したシステムの運用を管理する作業などが主である。これらの業務は、銀行業務に精通していて、支店などの人材とシステム利用時の要求に関する問題を議論し、その結果をまとめて、系列下の情報専門会社の管理者達に伝えることが主である。伝える相手も、同じ銀行から出向している人材であることが多い。このような場面では、情報系の深い専門知識は、必要としないことが多い。むしろ、銀行業務に関する知識や、現場の事務の流れ、人の動きなど関する深い知識や理解が重要になる。このため、そのような業務に従事する銀行の行員にも、その仕事が大きな負担になることは少なかった。しかし、1990年代の中頃から、インターネットが日本社会でも普及し、銀行のシステムにアクセスし、それを直接操作する人々が、支店の事務員だけでなく、一般の顧客にも広がるようになると、日本社会においても、情報技術が至る所に入り込み、銀行業務においても、様々な場面で、様々な機器を経由してオンラインシステムに直接アクセスする「オンラインバンキング」の顧客も増えてきた。それに伴って、それらの幅広い顧客からのシステムへの要望を聞き、新しいシステムの開発につなげなければならない状況が生まれた。この社会からの要請に、従来のような銀行業務の専門家としての行員だけでは、対応ができなくなったのである。
このような社会の変化の中で、銀行では、銀行の行員が仲介し、顧客からの要望や苦情を、コンピュータシステムの開発や保守を専門とする関係会社の社員へ伝達し、それをその会社の社員が、システムの開発や保守を委託している大手ベンダーの担当者に伝え、その問題への対応を担当者が企業に持ち帰って検討する。その検討結果をコンピュータシステム開発・保守専門の関係会社社員がベンダー担当者から聞き、それを銀行の担当部門の行員へ伝える。このような長い、情報伝達の連鎖で仕事を行なっていると、いくら要望や問題の内容を文書に記述し、その回答を文書で受け取っても、書かれた文の文章が完全でなければ、意味の伝達は、口頭での説明に依存することとなる。特に、日本社会では、従来から文書で約束事を記述する習慣がなかったため、作成される文章は不完全な例が多い。これを口頭での情報交換による補足で補おうとすると、仲介する人々の個人的な解釈が影響して、伝達の過程で情報の内容である「意味」が変化する。これでは、元々の顧客が持っていた問題意識と、開発されるシステムの機能の仕様とが、完全に合致することはない。特に、回答を作成する技術者は、専門家であり、最終的にその回答を受けて、その適確さを判定する行員は、非専門家である。その間の意思の疎通を適確に行うことは至難の技である。
このことは、銀行組織にも、情報系の深い基礎知識を理解した人材が必要不可欠であることを意味する。日本の社会では、そのような人材を受け入れ、育成する人材育成・雇用の基盤が整っていない。現実に、大学で情報技術を学んだ卒業生のほとんどは、コンピュータメーカやその傘下にある企業への就職を望む。そのため、現在、情報技術を現実に必要としているユーザ系企業に、情報技術の専門を学んだ学生が就職する例はほとんどない。学生の目から見れば、そのような就職の選択は、リスクが高すぎるからである。似たような状況にある米国社会では、アクレディテーション制度で専門家の育成を認められている大学の卒業生を見ると、その約4分の3は、コンピュータメーカ系やソフトウェア開発を主たる業務とする企業へ就職するのではなく、そのような知識を持つ人材を必要としているユーザ系の企業に就職している。日本社会とは、真逆の傾向である。これは、人材を必要としてるユーザ系の企業が、より良い条件(給与などの待遇)で、人材を呼び込もうとしているからである。ユーザ系企業では、情報技術の活用が、その企業の将来を決する問題であることが理解されているため、その人材の確保が最優先の課題の一つになっている。学生にとっても、ユーザ系企業で、経験を積むことによって、その先の将来でも、別のユーザ系企業や、コンピュータメーカ系企業などでの職が保証されると考えられているからである。これは、社会全体で、雇用の流動性を高める仕組みが整っているからである。
みずほ銀行のシステム障害が繰り返される背景には、このような技術者人材が、狭い組織社会の中に閉じ込められている傾向が強い、日本社会における雇用制度の問題が横たわっている。仕事の発注者側である銀行と、その仕事の受注者側である大手ITベンダーとの間に隠れている巨大な情報格差・知識格差が、発注者と受注者との人材獲得と人材要請システムである雇用制度に生み出されているにもかかわらず、それを根本的に是正する解決策を日本社会は見出せずにいる。発注者側と受注者側との間に存在する情報格差を解消しない限り、両者間での効果的な意思疎通は不可能だからである。情報技術は、今や、銀行業務に止まらず、社会の様々な側面で、業務の質や量の問題を解決するための鍵となる技術である。それは、全ての産業で必要不可欠なものであり、どの分野の企業でも、それを理解し、自分たちの業界の業務の将来像を見通すときになくてはならない知識である。これは、昭和の初期における会計の知識や、第2次世界大戦後の社会における経済の基本的な知識と似たような性質の知識である。それを理解した人材がなければ、将来の企業の統治はあり得ない。米国社会で、30年前から、「CIO(情報統括の責任者)を置かなければならない」と言われ始めてから、かなりの年月が経っている。米国企業で、CEO(会長)やCOO(社長)がCIOを兼任する例は聞いたことがない。企業統治の責任者でも、現場の担当者でも、専門知識を持つ人材が必要になってきている。