公開: 2021年10月22日
更新: 2021年10月22日
経済のグローバル化が進み、先進国における経済のサービス化が加速度的に進展する社会において、ソフトウェアだけでなく、全ての製品開発がアジャイル開発化するのは自然な傾向のようである。それは、ポスト資本主義の経済における「時間」の重要性が、これまでの産業化社会における資本主義経済の時間とは、全く様相を異にするためである。
そのアジャイル的な方法が成功する基本的条件の中で、最も重要なものが、作業に参画する技術者の技術的な知識の質の高さと、彼ら彼女らのコンピテンシの高さである。前者は、作業を確実に実施するために必要な知識を完全に持っているかどうか、そしてその知識の質が作業の遂行に要求される水準を上回っているかどうかを保証するための必要条件である。後者は、そのような仕事に従事する技術者たちの知識の量と質が十分であったとしても、その技術者たちにその仕事に真剣に取り組み、自分の持っている全てを発揮して問題を解決しようとする姿勢がなければ、使命を達成することはできない。そのため、一人の技術者としての仕事に向き合う姿勢を保証する十分条件である。
技術的な知識の基本的なものは、全て高等教育で学ぶことができる。もちろん、高等教育機関では、教育を受けた者が、社会が必要と認識している全ての知識を保持しているかどうかを判定し、その資格を認定しなければならない。大学では、履修単位の認定がこれに相当する。さらに、一般的には知識を保持していることは単に必要条件を満足しているだけであり、十分条件を満足しているわけではない。実務経験によって教育の過程で取得した知識を、適確に応用した現実の問題解決を、実践の場でやれるかどうかの応用能力を判断することが問題になる。
技術者の「仕事に向き合う姿勢」は、高等教育で学ばせることは困難である。それは、この生きる姿勢が人間の人生の早い段階で脳に組み込まれ、初等教育以降の知識獲得を中心とした教育では、修得させることに困難性があるパーソナリティや性格に近いものだからである。この「生きる姿勢」は、人間が誕生から幼児期にかけて、特に母親や周囲の家族から、日常生活を通して学ぶ基本的価値観で、ものの善悪の判断や好き嫌いの判断を形成する過程で獲得されるものである 。
子供の自制心の強さとその後の社会的成功との因果関係が、1960年代の後半から1970年代前半にかけて米国のスタンフォード大学で実施された「マシュマロテスト(マシュマロ実験)」で確認された。それは、自制心の強い子供ほどその後の生涯で成功する確率が高い傾向にあることを示した。マシュマロテストの実験の後、その被験者の追跡調査が続けられた。その結果、高等教育まで進んだ子供は、マシュマロをすぐに食べるのを我慢した子供たちに多く、さらに社会的に成功した人々も、マシュマロをすぐに食べるのを我慢した子供たちから相対的に高い確率で出た。
マシュマロテストが意味していると考えられていることは、「自制心」と言う人生の早い段階で形成される行動の特性、または獲得される生きるための姿勢や規律が、人間の人生における成功と深く結び付いているのではないかとする仮説である。ただし、この実験で自制心を示した子供たちは、相対的に裕福な家庭の子供が多く、別の観点から見ると、親の社会階級格差が表出しているとも考えられる。いずれにしろ、高い自制心をもった人ほど、その生涯を通して成功する可能性は高いと言える 。
専門家として社会へ出て、技術者として仕事に従事している人々について述べると、技術者として働いているからと言って、社会的に成功しているとは言えない。技術者として社会的に成功するためには、特定分野の専門家として社会的に認知される必要がある。それは、同じ専門分野で仕事をする他の専門家と比較して、他の専門家が持たない特殊な知識をもっていたり、他の専門家では解決できない問題を解決できる能力を持っていたりすることである。
全ての技術者が、高等教育を終えたばかりで、実社会へ出たばかりの時からそのような専門家として社会的に認知された人になっているわけではない。数多くの技術者集団の中で、優秀な技術者として認知されるためには、技術者としての経験を少しずつ積み重ねることで、少しずつ成長をし続け、最終的にその人しか分からないこと、その人しか解決できない問題があるという状態に到達する。
ある段階まで到達した技術者が学ぶことを怠り、それまでに獲得している知識や経験だけに基づいてのみ仕事をし続け、自分の仕事の仕方を改善する努力をしなくなれば、その技術者はその段階で成長がとまり、それ以上の段階に進むことができなくなる。これがその人の限界と言うことになる。このことは、組織論で「ピーターの法則」としてよく知られた理論である。
このことから専門家としての技術者は、専門家として生きてゆこうとする限り、「学び続ける姿勢」を維持しなければならない。新しい形式的な知識を学び、また、自分の実務経験から学んで、問題解決のための知識を増やしてゆかなければならない。これは、大学病院などの医師が、医師として勤務し続けるために、自分の専門分野における新しい理論や、新しい病気の知識、新しい治療法、新しい薬について学び続けることを要求されているのと同じである。技術者も専門家として生きる限り、生き方に違いはない。
しかし、この学び続ける姿勢を維持することは、決して容易なことではない。技術者がこの学び続ける姿勢を放棄してしまうと、その技術者が実社会で実践する問題解決は適切なものではなくなり、時として社会的な問題を引き起す原因になるかも知れない。もしそのようなことが起これば、社会的な損失が生まれる。例えば、企業が生産活動の結果として排出する公害によって地域社会に損失が出るような問題が考えられる。
技術者が適用しようとしている技術にそのような副作用があることを調べ、問題が発生する可能性があれば、技術者は専門家としてそのような解決策を採用することを回避しなければならない。「そのような副作用があることは知らなかった」と言う言い訳は、専門家の言葉として社会的には受け入れられない。専門家としての技術者にはそれだけの社会的責任が背負わされている。
重要なことは、問題解決のための技術の選択権限を専門家としての技術者に委譲した一般の人々は、技術者の説明に納得して、その選択判断を受け入れなければならない。それが技術者と一般の人々の契約である 。専門家としての技術者は、一般の人々に対して、選択する技術の利点と欠点について説明し、自分の選択が合理的であることを説得し、一般の人々の理解を得る責任がある。これは、技術者と一般の人々とのコミュニケーションを通して実施されなければならない。技術者は、この一般の人々とのコミュニケーションを怠ってはならない。
このような専門家としての社会的責任を全うするためには、技術者たちがその社会的責任を明確に認識し、その社会的責任を果たすためのコミュニケーションの方法に関する知識をもち、そのコミュニケーションの実践を学んでおく必要がある。社会的責任の認識については、技術者として生きる姿勢と倫理観に関する問題なので、高等教育で学ばせることは困難である。これに対して、コミュニケーションの方法論や実践能力については、教育することが可能である。このような高等教育で教育訓練が可能な知識や実践能力は、一般的にジェネリックスキル(generic skills)と呼ばれる。
専門的な技術者の養成を目的とする高等教育では、専門分野の形式的な知識を獲得させるための専門教育と、専門に限定されないジェネリックスキルの両方を教育訓練することが必要である。しかし、これまでの日本の大学教育では、このジェネリックスキルに関する教育が軽視されていた。技術が高度化し、経済のグローバル化が進展するこれからの社会では、日本の大学教育も世界的な流れに従い、ジェネリックスキルの教育にも力を入れる必要がある。そうしなければ、日本で新しい社会が必要とする人材を育成できなくなる。
さらに、これからの日本の大学に必要なことは、専門家としての技術者が必要とする最新の技術に関する形式的知識を、社会で活躍している技術者をも対象に教授する社会人教育プログラムを準備し、実施することである。この社会人技術者教育プログラムでは、必要な知識を獲得した人材に対して、その知識の水準を保証する認定制度を確立し、技術者個人や、技術者を雇用する企業組織は雇用する技術者を、そのような教育プログラムへ送り込むことをし易くする制度の確立が重要になる。技術者は、自分の責任で、大学と教育プログラムを選択し、自分自身の自己啓発のために大学で学ばなければならない。
日本の大学は、社会が要求している人材を育成するため、高校から入学する学部学生の教育プログラムも見直す必要がある。大学で専門を学び、専門分野で技術者として認められる人材を育成するために、従来の日本の大学における教育プログラムよりも実践的な知識を教育する教育プログラムが必要になる。大学の学部を卒業した人材は、専門家として働くために必要な最低限の技術的知識を持つことを保証する必要がある。
日本社会において、大学教育が上述したような形態に変わると、企業における従来からの入社後の新入社員教育に相当する社内教育は不要になる。このことは、企業の人材育成に対する財政負担を軽減させ、短期的な日本企業の国際競争力を向上させる。しかし、長期的に企業側は、企業がどのような知識を獲得した人材を必要としているかの人材に対する要求項目を明示して求人をすることが必要になる。このことは、大学が教育プログラムを設計するための参考になり、産業界と大学との連携による専門家教育プログラムの開発や改善が可能になる。